(はじめに)
七十年も昔の話になりますが 我々の給食はコッペパン一個の給食でした。ジャムも牛乳もない。副食オカズの類なんてある筈ない。あの評判の脱脂ミルクさえ無かった創生混乱期でした。いまだにクラス会などでは「俺の足が短いのは脱脂ミルクが飲めなかったためだ」なんて話が嗤って納得されているのです。日本国中皆が飢餓の中にいたのです。
我々は学校給食にあずかれなかった”終戦世代“です。”コロナ世代”も大変なことになるでしょうと案じております。当事者でないと真実は体感できませんよね。何時の時代も 教育熱心なセンコー諸氏に泣かされるのは 勉強には慣れていない学童たちです。こんな環境には付いていけない現実をあいつらの頭では理解不能でしょうから・・・。
(本文)
我々は食えるものは何でも食った。バカルシュウム源ッタは貴重なです。セリ、オオバコ等々 田んぼ道・野原の草は春の七草どころか「四季の百草」であった。
私はこんなことを書くのは別に終戦直顔の食糧事情の大変さを言って平静令和の贅沢ぶりをいうのではありません。 要は 食い物のUMASA美味の事です。
あの食い物は美味かった。だから夢中になって食った・田んぼ畔で獲った
ドジョウは最高の味噌汁であり浅草のドジョウ汁より美味いでしょう。
青年の働いた自動車部品工場でも さして上等の料理とも思えない給食でしたが 皆さん全てが完食でした。 肉体労働者にとって 空腹で口に入る食は
概ね美味であります。食い残しなどはありません。
平成令和の学校給食。食い残し残飯いっぱい。その割合五割とまで極論する者もいます・聞けば冷たい弁当給食とのこと。 学校給食は學校個別の調理ヲやらなくなりました。セントラル・キッチンです。「経済的不合理を改めた」だけの話でした。
時代の贅沢云々ではありません。。平成令和の現実の中では 弁当給食は不味い。学校給食ではない。
(おわりに)
給食会社に就職して月も経ないうちに青年の頭脳は猛烈なスピードで回転を始めました。こんな経験は<ものごころ>知ってから初めてのことです。
興奮しました。日々熱中しました。仕事は皿洗い(当時自動洗浄機は一般的な存在ではありませんでした)と玉ねぎの皮むきです。私は 世の中にこんなにも大事な仕事を知りませんでした。”食“に携わっていることがこんなにも生き生きしてくることが自分にも理解出来ない不思議でした。
我々従業員も同じ調理品を好みに選んで食事します。トンカツにしろ肉じゃが
にしろ普通の出来具合がいい。
青年は11歳の時 母親と死に別れております。その時以来 普通の食事をしていないのです。食は腹を膨らませたら「ハイ オーケー」というものではありません。 日常が普通になった喜びに 読書までが原点に戻りました。太平記だけではない 保元平治 平家と その時は本気に 釜ヶ崎のメイン・ストリートで「太平記読み」をやってやろうじゃないか.と思ったりもしたほどです。
おわり
PS;自分でも興奮してしまい わけの分からんものブツになってしまいました。格好良く老いることは 私には無理でしょうネ~