jikowsつれづれ#105 『あの鼠たちと友だちになりたい」 中津さんそんん

   六畳広さのキッチンにテーブルは 私のお気に入りの書斎です。

テーブルなんてもんは 食材の仕分けとか弁当の盛り付けに使用するのが本来であろうが 私んとこの奴は 本や・ノートや・大小色々のメモの類が散在山積しているてあいです。 それで良いのじゃ。 プライベートのキッチンであろうと、はてまた労働先の

調理場であろうと 私にとっては同じようなもんです。 夕方夜間のピークが終って 老若男女の同僚が皆消えて 最後に俺一人【火の元点検】がおわり ヤレヤレとなった時の気分が又最高なのです。 

残り香という奴か、さまざまな食材、火加減、調味の、言うなれば魑魅魍魎の残りカス

の雑臭です。 俺は不思議に落ちつく。 立つやら 床に座りこむかして茶碗酒となる。 酒は冷でよい。 肴は不要い。   このパターン・姿勢はプライベートの調理場にあっても変わることはない。

  わたしはこの至福の時間に浸っていると必ず誰かに見張られているきがした。 他人様の現場だったらガードマンの巡廻ぐらいに思えるのですが プライベートの場で監視を感じると 正直言って嫌な気分なもんです。

その犯人は意外な偶然から簡単に割れた。 

だぶ煩くなったな、と年期の入ったクーラーを見上げた時、目が合った。 端っこか

ら首だけ出した可愛い目ん玉は ネズミじゃないか? 奴は即消えたけど 俺にはちょっくら踏まんも残る。 そんなに怖がる事ないぜ! もうチョット,顔ぐらいめ

  そんなモヤモヤ時間が3年位続いたであろうか 今では あのすばしこく逃げ消える本能は変わらないにしても お目めなんかは私の顔をジッと見つめていることに舞台は変わっていた。  ここまでになると 人間として何とかしない事には 鼎の軽重を問われ金ない。   相手がねずみさまでも同じことよ

  私は 野良やネズミには餌は与えない。しかし 原則は現実の今を前にしては変わらざるをえまい。   どんマイ・ドンまい。

俺は炊飯鍋にヘバリの凝っている米粒は 出来るだけまとめて流しの隅に置くことを実行した。 図体のデカイ大人のネズミ様はもっと条件の良い餌タップリの寄せ場を荒らしにいってるので 俺の現場にやってくるのはコイツだけだ。

。「貧しい食事だが お前だけの食い物じゃ。 安心してヤッテくれやーーー」

  Ijikows さんそん           中津さんそん                                 

Jikowsつれづれ#104 「ねずみの通夜」  中津さんそん

   最近 なんか 天井が騒がしい。 夜のことなんだけれど 布団に入って(ヤレヤレ今日もやっと寝れるわな)と一段落ついたかと思う時間が来ると「きまって始まる。 イタチかな? ネズミかな? 何っ処からか俺を見張っていやがるに違えねー。

🤦‍♂️油断も隙もあったもんじゃない。  飲食商売に長年いたもんで、奴らを天敵扱いをするのが習い性となっている。  ねずみが出たら、即「駆除!」となるのは 食い物商売をしゃっていたら常識であろう。 私とてねずみ退治の方法ぐらいは知っている。

策略仕掛けにしろ 毒餌にしろ どうもねずみ殺しは好きになれない。 精々 ごきぶり程度までにしてほしいものです。 人間は 海にしろ山にしろ生き物を殺し過ぎだぜ。

ましてや 人間が人間を殺すのは どういうことかね?

春初めのような陽気のある夜ある時、妙に神経に触るコトコト騒音に目が覚める。 隣り

が小さい三畳ほどのキッチン都なっているので、ネズミ様のお出ましだろうと直ぐ気が付いた。  実はネズミ捕りの方は興味が無かったのだけれども 小生の大事にしていたインド製カレー・ルーを まな板にのせて隣の部屋で15分のニュースを見ている間に遣られてしまった。   年甲斐もなく小生かなり機嫌を悪くして 即ぐさま薬局に走って、勧められたのが ペッタンコと言って ネズミを接着剤でからめ捕るボール紙製の筒であった。 「ありゃ・ありゃ」俺は愉快気持ち一杯で隣を覗きこむと大きな奴が接着剤の上に仰け反っている。目ん玉をひん抜いているところを見ると手足図体は動かしてはいないがどうやら生きてはいるようだ。

獲物がかかったのに 瞬間 愉快な気分にもなれない。 どうも 様子が変んだ。

接着剤にやられたネズミは多分様子からしてひん死というところかも知れない。

彼の周りをだ、小さなネズミが四匹、仁王立ちになり 手振り頭振りで「チューチュー」やっているのです。 神経に触った音にならない小さな騒音の正体はこれだった。

周囲には大きなネズミは居ない。 どうやら 犠牲となったのは母ネズミであろう。母子家庭か・・・予想も出来なかった一場を見せつけられたときは、なんとも言葉はない。

  私は その時以来ネズミ殺しはしない。   (退治)なんて勇ましい事せんでも

生ゴミの処分とか食材の保管なんざを徹底すれが、なんとでもネズミ付き合いは出来るもんです。

     Jikowsつれづれ             中津さんそん

 

一場は 

Jikowsつれづれ #103 「ユダヤ」のこと  中津さんそん

  イスラエルパレスチナ戦争(紛争ではありません)の推移を見ていると「呆れる」と言うか「悲しい」というか やり場のない気分に陥ってしまった。

 直後 俺の児童時代と云うかガキ時代は4~6ねんあった。 其のころまでは<ユダヤ人は悪くて・狡い金貸だから・・・・・> 気を付けるんだよ。   と言う暗黙の差別感情と言うのかなーーー ?    感情を別としても それが世間様の常識だったようだ。

学校演劇で「ベニスの商人」と言うのがあった。 強欲なユダヤ人金貸しが 返済不能となった債務者に「担保となっている  本人自身の人肉1ポンドを早急に寄こせ・・」強要、まさに切り取らんとした時、正義の味方弁護士は――――――と、スリル満点に物語は続きます。 しかも原作は言わずと知れたシェクスピアです。 詰まらん筈はない。   学校演劇には打って付けの代物でしょう。

「狡くて・悪い人たち」の常識が、俺の中で変動を始めたのは60年安保の辺りからだろう。 そう 俺の青春時代であった。 怖いもの知らずの青年であった。 

キナ臭い事がいっぱいの地球だった。 ソンな世界の中でデカい面をしたがる連中を相手に チッポケナ・イスラエルと言う国の喧嘩強さは圧倒的驚きである。  如何なる分野であれ 「強い事」は容易に人を魅了する酒でしょう。

私とて 酒には弱い。 ユダヤ民族みたいな美酒ともなると文句も糞も無いわい。

アインシュタインユダヤ人だし、原爆作った最初の人はユダヤ人だし。  ユダヤ人は頭が良すぎる。  凡凡の俺には天才は憧れの人なんだ。 ある碩学の科学者の言によると、ユダヤ人の脳みそは他人種のそれとは生物学的に1段違うそうである。 奈良、俺は絶体にユダヤ人と結婚してみせる,なんて見栄を張っていたっけ。

アウシュビッシュにも行かなきゃ、と自分なりに勉強も続けていた。 しかし自分の頭では理解出来ないFACTに出くわすことも避けられなかった。

パリーのある繁華街の裏、あるブランド有名店の裏、そこに追いかけ罵り罵声

を浴びせている10数人のオバサンのr一団。 ブランド店はユダヤ人オーナーである。   こんなことは日常茶飯の出来事で新聞ダネにもならんそうです。

ホロコーストにいたっては、あんな信じがたい出来事が 全くと言いたくなるほど

静かに暴動もテロもなく大陸では進行していった事実です。 

ユダヤ人とは嫌われた人々らしい」。と云う事実に気が付いたのは 何と20代の青春も終わらんとする私生活上も統合失調どころか分裂病態なんて、我ながら無様BUZAMAな脳味噌に泣いていました。この<対ユダヤの複雑な嫌悪感情>のFACTの存在・由来を納得せざるを得ない失恋感情も重なり,イヤー、ほんと、私は参りました。

旅に出るのが自然だったんですねー・ー・ー。やはり。

 世に「カサブランカ」と言う名画があった。 大戦時 ナチスを逃れてアメリカに渡らんとカサブランカに集まって来た人たちのお話しです。  集まった人の多くはユダヤ人であり、生活程度も普通並みまたはプチ・プルと云えってよいかと思える人たちです。  私がムズムズしながらも尋ねたのが その後の「イスラエル建国にはどんな濃淡でこの時の逃亡者たちはかかわっていたか?」と言う事実です。

イスラエル建国にはロシア大陸をふくめユーラシアあたりからのユダヤj人が参加したと聞きます。 そして又、どちらかと云えば「日々に余裕がある」人達には見えなかったていました。 云わば難民に近かったのか・・・・・。

  イスラエル建国後にはアウシュヴィッツ生存者も招かれていますが 直系子孫の体験談によると精神的には意地悪と云うか、かなり無神経なご近所人間関係が推定されるものです。 詰るところ、今パレスチナ人の壊滅を図っている連中は どうやらユダヤ人の危難とは無縁の人のようです。

  無茶な殺人を続けたり、入植という名の真面目面をした土地略奪者たち:こんなこと知って出来るもんじゃないぜ…。 かっての満州国のザマーより数倍勝るんじゃないの? 

  正直言って 俺には何がなんやら全全分らん。 ただ言いたい事がただ一つ。

リーダー様がたの責任はどうなってんの・・・?     「自分はお前たちよりも能

力がある努力もした、とか信じて人の上に立ちたがって座った今の椅子だろう。 他人様の能力云々・・・なんてことは、(自分が馬齢を重ねただけの老体であるだけに) とてもじゃないが 偉そうなことは言えない。  にしても ウンコひじり放しにして良いの?

     Jikows              中津さんそん

Jikowsつれづれ #102 「これ、どうした? 頭が全ぜん動かない一枚の写真」 中津さんそん 

   人間にとって最も大事なことは 「飯が食える」ことでしょうーーー。 日本に生活する限り<めし>は食っていける。 例え、それが江戸時代の百姓めし以下の程度であれ、ガザの子供たちの現実と比較・考えると罪の意識さえ出てきてしまいます。

 昭和22年(1947)春過ぎて夏に入るころです。私は9才小3のガキでした。 俺の生活していた東北の北上川沿いの農村地域では 私の年頃の少年・少女は日常はスッポンポンの丸裸で生活していました。 女の子は腰巻みたいな藁だか草だか何だか分らんものを腰に巻いていましたが わしらガキどもはチンチン丸出しです。

 それから20年たって、朝鮮戦争が静かになって、世の中はベトナム戦争が続いております。  俺の青春のど真ん中であった。 毎日夥しい情報が送られて来ていました。

日本人カメラマンによるセンスのある戦争写真などは注目を世界から受けていたものです。  

その時、母と逃げる裸の子どものシーンを見て、「なんだ これ――。お前ソックリじゃないか・・・・・」と何か感じたような驚きの声を上げた中年の紳士が居ました。

紳士は、20年前、俺が馬小屋に居候している狡猾な少年であったことを知る人間です。

困るネーこんな記憶は・・・。やり切れない話だけど 少年にとっては藁布団の中に母に抱かれていた貴重な一枚の写真です。残念ながら 写真の概念も、カメラもない時代でしたので。

      Jikows            中津さんそん

Jikowsつれづれ#⃣101  「お話しメルヘン・許嫁」   中津さんそん

          むかし昔 老生が14才中2の 時でした。確か国語の授業だったと記憶しますが エッセイの課題に「トイレ」の話を書きました。  今流に言うとトイレで長男すが要するに「大きい便所」です。 その便所とて 山村の貧乏茅葺き小屋の我が家のそれは 住屋を囲む雑木の中に形ばかり板囲いをした青天井の外便所でした。まあ のぐそ野糞みたいなモノです。 たまたま(用たし)に入り 先客に居合わせた「デッカ

イ女郎蜘蛛とのお話をエッセイとしました。偶々 それを教師が「ホー」と感じてくれ、それを又少年の私が「ホー」と意味も知らずに 「ホー」と感激しちゃって その時メルヘンなる言葉を教授され 爾来,私はメルヘン的現実を心がけております。

太平洋戦争が終結したとき、ですから80年近くの昔になります。そこは 100戸にも満たない小さな農業専門の部落でした。

祖父は そこの村長をもう15年も務めている人格者、と云うか人付き合いの上手な政治大好き人間です。 

この村長の元に「どう しようもない悪ガキ」がいます。それが当年7才の俺でした。

 此の敗戦は日本国の重大事です。 村長も末端とは言え国の為政者の一人として 昼夜 責任の重さに苛まれない一日が無かったほどでした。

と言うのも 戦争が近づき始め世の中が落ち着かなくなった4・5年前頃から この村も御多聞にもれづ「右へならえ!」の世の中になった時から 実は村長の地獄が始まっていたのです。

徴兵です。 軍がヤル事とは言え、村長にしては{己の子弟を兵隊として差し出す}構図であり トップの者としては 云うに言われぬ断腸の想いとなるのは人間の常でしょう。

この村長とて特別に優しいというわけではありませんでした。

ただ責任感です。責任意識だけは 東北農村の現場トップのそれは 田舎芝居の比ではなかったようです。

 中年百姓の家から 初めて生まれた男の子 長男だ。俺達の後継ぎだ。 ところが次にも 次にも男の子が生まれた。

ああ、俺達夫婦は なんという果報もんヨ!

  こんな百姓から 長男が兵隊に行き 終戦直前には次男坊まで取られてしまった、

こんな徴兵の案件が続きました。 村長が正面に立って仕切る政事でした。 表は「バンザイ・バンザイ」の祝宴ですが、裏は「死ぬなよ・死ぬなよ」の通夜みたいなもんです。

 村長は 己れの長男次男ともに兵となった時,なんかトッテモ安心したようなかおつきで村人達に接していたのが、俺の子供心にも印象に残っております。

   戦争は負けておわりました。

   村から出征した男の半分は死にました。 

 村長の長男も戦死となりました。

 長男には言い交した女人が居ました。 許嫁と言うべきかも知れませんが なんせ本人は高1の15才ですので全てがまだピンとこない。いとこ会の同じメンバーですから、二人とも「大人になったら夫婦になる仲だから…」なんていって赤ん坊の頃か よく一つ布団で根化されていましたから まるで5才の頃から本物めおとの雰囲気でした。

 出征して間もなく彼女は女の子を出産しましたが、軍から帰ったら式ヲやって…なんて計画していたものだから 彼女は実家から通学・卒業して男の帰還を待っていたのでした。

 世の中の情報は混乱しておりましたが 長男の戦死が決定的となると 村長は「嫁をどう説得できたのか 不思議なことですが・・・」。 彼女を役場に勤務していた若者に嫁がせ孫娘の方は自宅に引き取ったのです。

 村長は それから一年も経たずに無くなってしまったのですが 其の遺書に「俺と孫娘との婚姻」が銘記されていたのです。

 私としては 村長に拾われ・育てられた恩がある。嫌も応もない。実は 私は内心 この娘のことは、ここに移って来た時から気になっていた美少女でしたけど。家の前をとおる街道はこのへんでは第一の港町に抜ける。。 多数の遊女・女郎屋で賑わっています。

そこを逃げ出した子連れ女が行き倒れ、親は死んだが、子の俺は生き残っていたのです。

        Jikowsつれづれ         中津さんそん