今は昔#60 Jikows つれづれ 【連れウンコ」中津さんそん

少年は お母さんと2人馬小屋に暮らしておりました。令和の時代から見ると70年以上もの昔のことです。少年は10歳前後であったと思います。

 この話は大阪西成の共同墓地崖下の小さな立ち飲み屋で耳にしたものです。

以前から気になる老人でした。 歌の文句じゃないけれど一人酒場の片すみで賀茂鶴をチビチビやってる奴とは、「う~ん」,やっぱり気になります。・

 70年昔の日本では北海道から九州の果てまで ほぼ100%近くは人間様は馬や牛の力を借りて日々をしのいでいました。馬車や牛車の面倒は自動車の手入れとは比較にならない重労働でした。 『ノミ・シラミ 馬が尿(バリ)す

る枕元」なんてのは実情に近いお話です。  処は東北の山と川に挟まれた一寒村でしょう

少年と母親は当然のことですが馬と一緒に寝ていた訳ではありません。 土壁一枚隔てたとなりの馬具や農作業具を置いていた作業場に寝ていました。 イ草畳なんか無縁のもの 人間が寝るために それでも藁むしろが畳代わりに敷き締めてある。

電気なんか無い。<どうやって 食事の面倒見るの?>

母親は逞しい。

馬小屋の軒下に石ころと泥をこね回してなんとか竈みたいなものを作ってみたものの どうも幼稚すぎて子供のママゴトにもならない。小屋の中に今でいえば犬猫の砂場みたいな囲炉裏を作り上げて手あぶり焚火で煮炊きものを賄ったのでした. 食料難の時代でした。 少年も母親の作ってくれたもので記憶に残っているものはないのでした。

ただ好く食ったナアと頭に残るのは イナゴ(バッタ)、どじょう、なまず、のぜり、おから等々であった。 たまご、鶏を一度でいいから食ってみたかったのです。ああ そうそう 遠足の時はゆで卵をもっていった生徒は少年だけでした。。

クラス一番の貧乏人の子でしたのに。「オフクロ、無理したろうな」と今でも思っている。

 少年には男親と年の離れている二人の兄と二人の姉がいますけど その5人は馬小屋にはおりません。

父親は小半時も離れた隣村の知人のところに暮らしています、馬小屋には時たま顔を見せる程度でした。少年がその理由を知ったのは中年男になってからでした。

 2人の姉と二人の兄は皆東京に出ていました。敗戦直後の日本、ヤミ市と瓦礫の中で青春真っ盛り若者だったようです。

少年には住む世界の違う“大きいひとたち”だったのです。

 ここで老人の語りたいのは どうやら<俺たちにとって家族とは ガキと中年小母さんの頑張る馬小屋の二人家族>だったんだよ。

小母さんは立小便でした。そこは母屋や馬小屋と離れた庭外れに建つ風呂場の軒下の相応の地面と板の割れ目です。そんな処で中年おばさんが 裾をあげて両足開き立ったまま「シャー」と勢いよく用をたすのです。

 母親のこんな振舞い目にした子供たちは仰天しました。大人になっている子供たちは 平均的家庭の平均的躾(しつけ)

を受けた子女です、しかも教育だけは平均以上の境遇を親は無理して与えています。無学文盲の女を彼女に育てられた若者が敬遠したとしてもふしぎでもない人間世界かもしれません。少年だけは未だに貴賤みたいな有為を知らない、無邪気に囲炉裏の灰に<いろはにほへと12345>と教えていました

そのお返しに母が少年に教えたのです。大便所も母屋・馬小屋の外のありました。糞ツボに渡した板にまたがってやるヤツです。そこに女は子を前にして己もシャガミ用をなすのでした。大便所の前には必ず南天が植えられています。その南天の葉っぱで器用に後始末をするのです。

 これと似たような話ですが シベリヤ抑留を経験した先輩から聞いたのには 連れ糞といううべきか5・6人と一列にやるのはいいとしても 空腹のあまり森の名も知らぬ雑草木の実を口にした結果。「下痢が命とり」になったかも・・・・

 今思うと この話 一人チビチビ賀茂鶴をやっていた老人本人の人生ですワ  そう私は思います。

 

Jikowsつれづれ つづけます。