(始めに)
「孫への遺書」が 十五番のうち十番まで漕ぎつけ、先の目途が立ちましたので 老生のお粗末ながら 「今は昔」に手を付けたいと思っています。。当初自分としては「孫への遺書」を終えてからと心算をしていたのですが 正直言いますと かなり年齢的に焦っているのです。〔早く書いておかないと…〕。抑えることが出来ません。古人も多く試みております。私も真似事ですが許される事ならトライしてみたいのです。私自身の総括といったものでしょう。一度振り返って見るのも「美味」に出くわすとはあまり期待できませんが 今宵の酒の肴ぐらいにはなってくれるでしょう。。
(本文)
青春の中でした。 そう あれは 日本に新幹線なるものは未だ存在していない時代です。東京―京都間は《はと》とか《づばめ》で飛んでも六時間は掛かったように思います
確か妙心寺の塔頭(名は亡念),陽だまりの中にヌクヌクと午睡を貪る猫のように碑が一人座っていました。 曰く『寸心』
先日 終活中、押し入れの奥から古い読書日記が出てきました。「カラマーゾフの兄弟」でした。それが 高3の十七歳なのです. 途端に私は 悪寒が走り重たくなります。「何じゃ コレ」。受験勉強もしないで「俺はほかの奴とは違う―――」とか気取ってサ、悩める青少年を演じていらっしやったのですか?。何と嫌味なガキだったんだろう・・・俺は。
悩める青少年の猿芝居みたいなもんでしょう・・・。
その夜は 何処かのトリス・バーでしたたかに酔い 翌朝はこれまた何処かの土塀の下に猫のごとく蹲っているところを 何処かのご婦人に「チョット風邪をひきますよーーー」と注意され正気に返りました。
こ゚の頃は 京都にしろ金沢にしろ こんな若者の我儘が大目に見られる余裕があったようにも思えます。コロナ騒ぎの令和の始め、 京都は久しぶりに往年の静かさだと誘われましたが 物理的には余裕が出来たでしょうけれど精神的にも余裕がOKなのでしょうか? と止めときました。
何はともあれ 私は生まれも育ちもお粗末、生業もあまり自慢の出来るものではありませんが 若さなりの真摯のお蔭でどうやら偽者にだけはならずに来れたようです。
おわり
(あとがき)
「孫への遺書」は 順不同となりますが 老人なりのペースで走りぬくつもりです。