」
(初めに)
。82歳の今 放浪時代を思ふ
若者を旅に駆り立てるのは青春の狂気でしょうか?それとも単なるロマン?
ヨーロッパの貴族の子弟は 家庭教師付きで自家用馬車の大陸周遊の旅を時間をかけてやるそうですが 何とも優雅な話で学習にもいろいろありますわ・・・。船にしろ自動車にしろ無銭旅行にしろ節約バックパッカーにしろ 私の旅の範疇には入らないようです。
気分としては ヤクザ渡世の旅がらすとか土方渡世のノンポリ野郎と言う所でしょう。
一見‘気楽な御仁’に見えますが 365日「飯の心配」が付いて回ります。遊んでいるわけでは
ありません。
(本文)
何処に行っても〖人間の海〗です。川であれ湖であれ沼であれ森であれ 無人島みたいにはいきません。サバイバルには 先ずお金 お金を稼ぐには 人間と付き合うことが求められます。何処に行っても人間関係です。。私などが言うべきことではないかもしれませんが 芭蕉殿にしろ業平様にしろ羨ましい限りです。金の心配なんか必要のない人たちですから。平たく言えば「いい気なもんだぜ、。これが上級日本人ですか・・・?」
世の中には俺のように人間関係の苦手な奴は案外と多いものです。人間関係が苦手と言っても別に人間嫌いではありません。ただ 理不尽な人間であっても我慢して続けなければならない絆が子供心にもやり切れなかっただけの話です。人間関係が苦手ならば 人間好きであっても人間社会から自然離れてしまうのが落ちでしょう。
今も昔も 昔は特に【出家】とか言う私には羨ましい習慣があったようです。
御多分に漏れず 少年の私も「方丈記・徒然草」を暗記させられたものです。高遠な先生方に憧れて 早速里山の洞窟に夜を明かしエライ目に遭った経験があります。
出家と家出を同じくして意気がるとこなんか やはり少年時代は楽しいもんです。
しかし出家にしても 社会的存立の是非を巡っての齟齬に過ぎないのでは?と言いますと己の浅学を蔑笑されるかも・・・。食うことには困らない【高尚な我儘】ですから 許される立場の人は勝手にしたらいいのです。
日本は何処に行っても これはと思う山や野ッ原には必ずと言っていい程【何某の庵址】が点在します。その数の多さから言っても ワビ寂び風雅を愛する上級日本人の存在が想像されます。
兼好法師に至っては、キャンピング・カーを乗り回して彼方此方に庵室を作り捲くった趣味人に思ったりするのは私の僻目でしょうか? 勿論 私は『イケずな奴 そうありたい人物』の教示を受けること大であったことを感謝しております。
(本文)
長明-兼好両先達の例から見ても やはり「多少の金」を持っていないと 例え「世捨て人」になるとしても世の中ママなるものではないようです。
江戸の文人達は一様に「お金」のことを語っています。チャップリンも同様『僅かのお金』が必須であることを説いています。
(おわりに)
日々怠学怠労働 何とか次回♯35で老生の放浪総括も肝心なことは端折りながらも一応は格好付けたつもりだ。「ヨウ頑張った 疲れたろう。休んでくれ」。肩の荷が下りました。自分を総括するなんてことは中々正直になれんもんですわ。
おわり