今は昔#51 Jikowsつれづれ記「大陸孤児(6000字)」 中津さんそん

 

 

(梗概)

満州国が消滅してから かれこれ80年がたちます。

満州国とは 中国大陸の東北部に 1932年日本が主導して建国した”訳あり”国家でおんな実は日本陸軍の傀儡政権でした。 日本本土からも二百万人が移住してました。

 ところが 1945年日本の敗戦によって満州国は崩壊 結果大部分の日本人は日本本土に帰国しなければならなくなったのです。引き揚げです。

かっては デカイ面していたけれど 今は戦争に負けた”惨めな”負け犬です。帰国と云ってもスム-ズに行く筈はありません。 何しろ 大陸人にとっては他人の家に図々しく入り込んできた盗人みたいに思われていたのですから 現実は「石もて叩きだされる」ような逃避行であったのでした

 五体満足な男性はおりません ほとんどの男は軍隊に召兵されていました 残っているのは 老人病人オンナ婦人赤子幼児童です 

こんな人間が 歩けますか 動けますか 走れますか 戦えますおおか 知恵は回りますか?

 この物語は 日本に引き上げてくることの出来なかった”子供”のお話です

 

(本文) 

 清水剛(5歳)の家族7人は 敗戦の時には旧満州奉天市(瀋陽)に住んでおりました。

父親は満州国の警察関係者でした。 母親は48歳 子供は五人います。18歳の長男と13歳の次男は日本の仙台に留学中で不在です。 20歳の長女は病弱で入院中です。ですから 家にいるのは16歳の下の姉と剛と両親の四人家族と言うことに為ります。

 1945年⒏月15日、日本敗戦満州国崩壊です。

 盛者日本人は一夜にして惨めな敗戦国民となり原住民からは憎しみ の仕返しを受け 占領軍のロシア兵からは理不尽な暴力を受ける羽目となったのでした。

警察関係者であった父親は当局に逮捕され 即日路上で公開処刑されました。背中に銃口を突き付けての銃殺です。 五歳の剛には見せたくない光景ですが 16の下の姉は一時間前に中国軍に看護婦として徴用されたので 父親の最後を見送ったのは母と剛の二人だけだったのです。下の姉は この時以来音信不通です。

 それからの半年近い”生きる“は筆舌に尽くしがたい 。大陸は共産党軍と国民党軍との内戦が再開されたのですが がいして 居留日本人に対しては軍律は厳しいものでした それに反して 占領して来たソ連軍のロシア兵による行動はそれこそ人倫の外にあるちきしょう道であったことを歴史に記すだけにして詳しいことは省略します

無防備都市下での生存は 今も昔も同じです。

 やがて 本土への引き上げが怒涛の如くに始まりました。

引揚は 近所隣組の家族百人内外の団体行動となります。 団の結束の度合いによって 個人の命が左右されたとも言えるでしょう   団長さんの人格次第だったのでした。

満州中で 団長は残酷な決断を求められたのです。

剛の家にも 世話役が来て言いました。。 

「二人のお子さんのうち片方だけなら 団は責任を持てるのですが・・・」

この家は 条件が悪すぎます。 病臥中の二十歳の女性を運ぶだけでも四人の担架要員が必要なのです。足萎えの5歳の子供 と女親です。男手はありません  こんな家族も何とかしよう と団は考えました  満州隣組は絆は強かったのです。

 母が子供を見棄てることが出来るでしょうか?

家族3人の中国大陸残留も考えました。 これとて 独身男ならいざ知らず 女所帯三人では無茶な話です。

その夜 長女は風呂場で手首を切ったのです。 自殺は母親の予感で間一髪で未遂に終わりましたが・・・ 。 母娘は 抱き合って泣き明かしました。 母親は覚悟を決めました。 病臥の気娘を一人敵地に残して親は逃げるわけにはいきません。子供は一人として殺さない。 一家心中なんてやらん。 「死んでたまるか・・・」

 

 

 姉の自殺未遂によって 剛は何か知らないけれど「大変なこと」が迫ったことを知りました。 お母さんの顔は 今まであんな怖い顔見たことありません 今でもニコニコするけど あれお母さんの本当の顏じゃない。

この時から剛は 一瞬たりとも母親から離れません。 便所は一緒です。母一人でも行かせないし自分一人でも行きません。寝るのも一つ布団で一緒です。 こんな躾けの悪い子ではないのに でも母は何にも云いません(この子は私に捨てられるかもしれないと気付いているのです) 親は不憫でなりません。

なのに 末っ子は大失敗をやってしまいました。

剛は母親と ある金持ちの中国人を尋ねていました。大人(taijinn)です。

お茶とお菓子が出ました。 それが 剛の大好物である粉砂糖のたっぷりふりかかった万頭だったのです。老人に勧められるままに ニコニコと口に運びました。席には同年配の女の子もいて 和やかな雰囲気に安心しきっていました。 母親が耳元で「ちょっと おかあさん お手洗いに・・・」と言った時にも「うん--」と何の怪しみもなかった・・・

母親は それっきり帰って来ませんでした。

捨てられた と知った剛は万頭を吐き出し母親を追いかけました。

老いた中国人夫婦は子供を抑えます。 ですが 半狂乱となった子供の力は老人の手には負えません 隣の部屋から屈強の若者が助けに入ったのでした。

少年は 三日三晩泣き狂いました 飲まず食わずの狂人日記です。

時に泣きつかれ声の静まることがあっても 顔を近づける老人の息使いに反射的に泣き叫ぶあり様だったのでした。。

少年の憔悴を見ると 剛の生きてるのが信じられないほどです。 肋骨は浮き出し 

肉と言う肉は消え失せ 目だけが大きく光る黒い塊の頭 まるで枯れ木の案山子であった

眼を開けると 自分を優しい目で見守る初老の男女です 剛の新しい父と母でした

 

日本の母親は 病の娘と日本へ引き揚げました 団長さんは 病臥の娘を運ぶ担架要員を準備したのです 顔見知りのご近所さんでした。団長に母親も頑張りました。

  

皆さんにも各自家族がいます。荷物もあります。子供もいます。 他人の面倒見ている余裕はないはずです。ですが。この環境の中では隣組は好く助け合いました。

 引き揚げは レイプと略奪に怯えながらの逃避行です。 母はレイプの襲来には進んで若い女たちの防波堤になりました。 何かお返しをしなければ、の気持ちなのでした。

この団長さんとは博多の港で別れました。以来 音信の交流はありませんん

兎にも角にも 母は五人の子の命を救いました ( もし開拓団の家族でしたら、こんなことははありえなかったでしょう。)

 ただ 二人の子はまだ異国の地におります。

16歳の娘に

は 母は「中国の軍隊なら大丈夫…」と思っております。 「女は命さえあれば 何処に行っても上手くやって見せるわヨ」と 自信の程をのぞかせるのでした。

 問題は 五歳の足萎え末っ子です。

母は「必ず迎えに来ます 親が子を捨てることはありません」。

 

  敗戦 戦後処理の日本のことは省略します。 剛と母親の個人史を語り続けたいと思います。

 引き揚げてきました母親と病臥の娘は父親の実家に世話になりました。

日本に留学中であった二人の息子とも無事再会を果たし 二人は祖父の援助で

大学まで進み社会人となっております。

病身の長女は健康を回復 町役場に就職 やがて結婚 隣町に住んでいます。

 母親は二人の息子の自立を機に東京に一人移住しました. 飯場(建設現場)の賄おばさんの仕事を見つけたのです。 実家の舅姑もなに今さらと意見したのですが 本人の覚悟は堅かった。 実は 彼女には新しい人生の誘いは多かったのです。梅蘭芳に似た美人です。世間はほったらかしにしません。

しかし 母の頭には大陸に残してきた末っ子の事しかないのでした。

 その大陸に残された剛少年は 今では二十歳過ぎの好青年です。 あの日一緒に万頭を食べた二歳下の妹は結婚して北京にいます。 青年は養父母と三人暮らしです。

養父はかなりの老いですが 未だに小さいながら煉瓦工場を経営しております。

根が侠客肌だから 働いている者にも勇み肌の若者が多い。

剛が「小日本鬼子!」と苛められて帰ってくると

『うちの若に何をするか-----』

と 棍棒持って飛び出してくるので 中国人は剛少年には手を出さない。専ら 陰口だけです。

苛めるのも中国人 守ってくれるのも中国人です。

 

 青年に恋人ができた頃でした 文化大革命の嵐が吹き荒れだしたのは。旧体制を改革する運動です。ですから 養父のような侠客まがいの小市民はひとたまりもありません

 生活は一変しました。一家は家財を没収され 東北奥地の集団農場に追放され 青年は危険なダム工事に回されました。 恋人は去り 何故か妹までが離縁されて北京から戻ってきました。

剛は 家族が受けた災難は 自分が日本人であるが故の「とばっちり」であると認めざるを得ないのです。 なのに 父も母も妹も剛を責める気配は微塵もないのです。

父母妹は慣れない労働に体調を崩し 一家の生活は青年の双肩にかかりますが 剛は「大丈夫 大丈夫 任せておけ-----」  この家族は俺が守る。 どんなことがあっても絶対捨てたりはせん------」

青年は病気がちの両親と出戻りの妹を残し危険なダム工事を志願しました。より高い給金を期待してのことです。 人の二倍は土砂を掘った。夜まで働いた。

 ダム建設のコンクリ-ト打ちは時間との勝負です。コンクリ-トを下から順々に積み重ねていきます。セメントと土砂を混ぜた生コンクリ-トは時間を置かずにダムの型枠に流し込まなければならない。 コンクリ-トの固まりは今は昔と違って恐ろしく速い.一旦工事が始ると 少々の人身事故ぐらいでは操作をストップさせることはできません

 剛はその生コンの流れにに流されたのです。 最悪の結果が予想されます。 人間はダム突堤の中で長く歴史に残るのです。

剛は瞬間 照明に光る岩肌に巨大な手を差し出す父を見ました  父の差し出した手は 生コン流しの樋のつっかえだったのです。

樋の支柱にしがみ付き 青年は九死に一生をえました。まさに奇跡です。 当時 現場ではかなり評判になった事故でした。

 無茶とも言える剛の頑張りで、一家は生計をたてなおし また一家四人の生活に戻ったのでした。

 

 それから 十年も経ちました。

剛は すっかり小父さんになっておりますが 何時もニコニコ家族をやっております。 まだ嫁さんはおりませんけれど・・・・。

 

 世の中は変わりました。

大陸には混沌の中に共産党政権が誕生しました。四年後の1949年です。国は出来ても大陸は静かならず、日本人孤児の存在など考慮される時勢ではありません。肝心の日本政府が孤児の存在には何故か目を向けません。

日本と大陸政権との交流など完全断絶です。

 世界政治の潮流が変わり 日本と大陸が国交を回復したのは二十数年後の1972年です。 時の総理大臣田中角栄 様様です。 ですけど 五歳の剛少年は四十路近くのの中年おじさんになっております。

国交回復と言っても 渡航国内旅行が自由な国柄ではありません。検閲付きの音信のみです。

民間は 政治の都合を待ってはおれません。即 行動を始めました。 庶民の知恵は天の心です。 どんな術数でもやってやるぜ--- ほんと 時にはスパイ騒ぎなんかもありました。この間のもどかしさが生んだ物語は枚挙にいとまはありません。

長野の僧侶、山本慈昭住職のご苦労などは長く記憶されるべきです。。 孤児の肉親捜しはどこそこで親と離れたみたい・・・」とか言った「あやふや」なものばかりです。孤児からの親を求める悲痛な手紙から、何らかの手掛かりを類推しての作業です。

 そして 孤児と在日肉親との実際の対面が実現したのは 1975年でした。

親と別れて三十年。幼童児にとって親の顔さえ定かではないのは当然でしょう。

 身元確認は専ら聞き取り調査と精々が血液検査ぐらいでした。当時DNA鑑定は未だ確立されていなかったのです。

 聞き取りの情報なんてあまりにも心もとないものでした。

曰く どこそこの駅で知らない中国人の小父さんに引き渡された どっかの家に置いてきぼりされた 捨てたのでもない 売ったのでもありません 緊急避難の別離でした。別離を悲しむ余裕もない切羽詰まった別離でした。

親と離れて中国人に拾われて農奴に近い身分に為る事もありました。しかし それでも生き永らえた子供は幸運であったのです。あるものは川に流され 生きながら大地に埋まり 母はわが子と共に燃え盛る我が家に飛び込みました。赤子の多くは野犬のえさとなったのです(私は中華の犬料理は絶対に食べません)

残留孤児たちの間に 「日本帰国」の噂が流れると 日本子女たちは拠ると触ると 日本帰国の話ばかりです。

ところが 剛自身は無関心冷たい態度なのでした

剛には「日本恋しい」の感情はすでに薄れつつあるのでした。 今の家族以外の人間関係を考える余裕はないのです。

養父母は そんな息子を見て(我々に遠慮しているのではないのか?)と 不憫になります。 父母は剛には内緒にして日本の母親に手紙をしたのです。。本籍地あてでしたので 戦後の町村合併で消えた地名も多く 随分と回り道をしましたが

母親のもとに届いたのです。 母は狂喜しました。

 実は 彼女は国交回復以来彼女なりの工夫で大陸に色々とコンタクトを試みてきたのですが 養父母の行方は杳として知れないのでした。 それが 向こうの方から連絡がやってきたのです。 東北奥地の農村へき地でした。

早速 二者間の文通交流が盛んになりました。 ですが 肝心の剛の態度は心もとないのです。 

 何とかカンとか言って 剛たち五十人ほどの孤児が訪日した時には 孤児たちの身元確認の事業が始まって二年近くたっておりました。

 場所は東京代々木の青年会館です。

剛にとっても母にとっても これは当然確認される事務的セレモニ-みたいなもでしたが 確認証左の時 二人の色盲遺伝が話題になり 担当官が「これほど 確実な母子証明はありませんな・・・」と祝福の笑みを浮かべたのでした

 訪日孤児団は 身元が確定すると実家に宿泊が許されます。母は東京立川の都営住宅です。

 六畳一間に簡単なシンクのついた築三十年の木造アパートです。便所は共同、風呂は無し。平成の今どき こんな公営住宅はありませんが 終戦直後には普通の住居でした。 母は「ここでは私が一番の古株よ」と笑いますが、ここで一人彼女は息子の帰りを待ったのです。

 部屋の様子を見れば 全てを理解できます。

安物の簡易タンス オモチャみたいな独身用座卓 鏡台みたいなものはない 唯一生活の臭いがするとしたら六インチのテレビくらいであろう。

 その夜の食事は剛の強い希望でテンプラとなりました。テンプラは清水家では特別のご馳走なのです。満州時代 父が未だ存命のころ 座敷の中央で父と母が天ぷらを揚げ始めます。それを四人の子供が囲んであげたてのテンプラを食べる贅沢な饗宴です。剛は この経験はない筈です。なのに何処で耳にしたのか 天ぷらを所望したのです。母は「ハイ いいですよ」と殊のほかに喜んだのです。

 寝る段になって 母は「今晩だけは どうしても剛と一緒に寝る」と言い張ってダダをこねるのです。息子は困りました。図体だけでも母の二倍はあるのですから

 それでも結局 二人は布団をくっ着けて 母は一晩中息子の背に顔を埋めていました。。

 

  孤児訪日団の離日する羽田空港は一種異様な雰囲気です。

清水母子は 自分たち運命が 開拓団の人たちと比較すると余りに恵まれた環境にあることに 自然黙りこくってしまうのです。

「僕、どうしていいか解らない」 ポツリと剛は半べそです

「良いですよ。あなたの思うようにやってください」

母つれづれ記は自分の立場をわきまえております。

「僕 やはり日本には戻れません」

「ハイ 解っております。お国のお父さんお母さんを大事にしてください」

息子は左足を引きずって搭乗に向かいます。その後ろ姿は 母を逃すまいと必死にしがみ付いていたあの足萎えの五歳の末っ子でした

おわり

*本文は一昨年十二月三十一日にblogしたものをrewriteしました。

今昔♯50Jikowsつれづれ「今の中国大陸は共産主義下ではないよね、あれ?」中津さんそんhttps://blog.hatena.ne.jp/jikowsnishinari0825/jikowsnishinari0825.hatenablog.com/edit#

 

 

  昔中国大陸東北部の一角に満州国という国が存在しました。1932年に建て前は漢族・満州族蒙古族朝鮮族・日本人の五民族の協和国家というこ とに為ってはいましたが、実は日本の関東軍が策略した日本国の傀儡国家というのが真相でした。当時日本は政情不安に加えて東北地方は不作続きで国全体が【確っきりしない不安】にありました。かの芥川龍之介が自殺したのも、こんな世相の時代です

一方、中国大陸は共産党勢力国民党軍やさまざまの軍閥が乱立、満州国以外は治安不良の番外地と言いたくなる人もいたのです。

その中国カオスの中を、毛沢東-朱徳率いる八路軍共産党正規軍)がジワジワと拡大していったのです。主眼は、農民解放、スタート・ラインは一応<平等>が確保されたはずです。革命んてもんは、フランス革命にしろアメリカ独立にしろ、スタートは根っこに平等がある筈です

時は移り、1945年日本の敗戦により自動的に満州国は崩壊しました。

土地は中国人民のものです。在満日本人は外国人です。現地農民の感情としては不法侵入者にすぎません。「早く出て失せろ1」です。

大陸は、国民党共産党の国内戦争の最中で、ロシアの囚人兵共がそれこそ不法侵略してきて、

治安も糞もあったもんじゃありません。

そんな中、政治も事情も分からない無辜の民、それもオンナ子供老人病人の群れです、彼らの本国帰国が始まったのです。引揚げです。

ブログ「大陸孤児」は、日本に帰れなかった子供の話です。

残留日本人孤児を育てることに為った中国人たちも、一応に<何らかの事情>に,己の身を削る仕儀となってしまいました。敵も味方もありません。皆んな人間は、平等に生きております。【あの時の人間平等の運動】がj自分には寂しいのです。、他人のことは言えた義理ではないけれど、今日の大陸は、私には、まるで秦の始皇帝のような思いをしてしまいます。そんな思いは、小生の劣学がなせる業ですか?

結局、人間世界の中では共産主義体制の国家は不可能なのでしょうか、多分そうなのでしょうね!ソビエットや東ドイツの崩壊なんてあっ気無かったワ…。出来る事ならキューバなんかには一度行ってみたいものです。詰まりは、人間個人の欲望の厚薄が問題なのですか?、昔70年前武者小路実篤氏の「新しい村」の講演を聞いたことがありますが、かえって、人間の誠実さを教えられた時の方が、年を取るとジンワリと来ます。

Jikowsつれづれは、可能な限り続けたくなってしまいました。

PS;少年の私はかっては、中国の大人(taijinn)を敬愛していたものですが・・・

 

 

 

今は昔♯49 Jikowsつれづれ 「人生なんて バイバイだけでok---ok---] 中津さんそん

 

「サヨナラだけが、人生よ」と言った先輩もいました。「男と女の間は、サヨナラだけサ・・・」と気取った呑ん平もおりました・こんなご老人は結構なもんですよね。

82年老の私は、何が原因やら知りませんけど、最近は心身ともに、とんと不調の毎日です。

肉体に汗を流すことしか金を稼ぐ方法を知らない労働者にとっては、コロナが来なくとも

生きていくのが何かとシンドイ世の中です。

 

「どうも俺の人生上手く行かんわい」とボヤクのは自分だけではない、みんな皆さま御同様ですわ。上手く行かんでも、なんやかんやと誤魔化してやって来ました。若い内は嘘をついても罪悪感は案外早く消えてくれるので助かりましたが・・・。

82年老人ともなりますと若くはありません。もう、やり直しは出来ません。手遅れなのです。なら、『旨く行かない人生どうします?』

毎日、酒でも飲んでいますか?こんな酒、美味い筈ないですわなーーーー、やけ酒とは言えないし、【ただ口に運んでいるだけの酒】というだけの話です。水みたいなもんです。

こんな日常、格好悪いもんね。俺はやりたくない。「責任のとれない弱虫!」と、孫たちに軽蔑されますわ・・・

朝活独歩一時間、朝食は魚沼米に仙台味噌汁,水戸納豆に生玉子と贅沢をして一日の始めとしたい。後は、お天道様の傾きのままに足の向くままに頭の動くままに過ごしたい。

こんな生き方は無理か?不可能か?許されないか?

つれづれ続けます。

今昔#48 Jikowsつれづれ【食満ちて・・・】 中津さんそん

 

衣食住とは日本語も良い語呂合わせをしたものです。まさに人間生存の基盤でしょう。自分ではっきり自覚し始めたのは12・3才の年頃であったかと?

【学校生徒】の日常が毎日が芝居演技の連続で子供心にも嫌だった。着ている物も食べているものも住んでいる所も、みんな友達とは違うのです。嫌であっても子供には理由は解りません。

ですが15歳を過ぎたら、大人です。自分の周囲は自分なりに解釈し理解します。

私も、そうでした。考える環境を持ったことは、頭脳も肉体も幼稚な子供にとっては、ある意味かなり残酷なカルチャー・ショックだったでしょう。。こんなことは【今流】には【傷ついた】と表現するのでしょうか?

 

衣食住は、人間の基盤です。基盤が出来て(いるいない)では上に立つ建物の出来が違います。

少年はそれに気が付きました。部活です、哲学少年です。ですが如何せん「育ちの垢」は一朝一夕には払拭は出来ません。

82才の私はつい最近まで板場生活をやっていたお蔭えでしょうか、に対する垢は無いようです。‘食’に関する限り、おれは育ちが良いんだよな・・・。いや、やっと「そう言える」自信が出来たのです。80代に入ってのスタートラインです。私の辞書に「卑しい」は無くなったのです。。

大昔の事、シドニー・シェルダンの英語学習教科書(確か‘追跡’)の中に、主人公の少年が捨てられた食い物に対して、空腹のあまり「一時持ってしまった卑しい欲望」を毅然として踏みつぶしたシーンがあった。少年の育ちの勇気に感動したことがあったっけ・・・

無論私は、こんな格好良いことは別として、自然的人間的戦場においては、子の為に雑草生ゴミをあさる事には躊躇はしない。

どうして最近、80を過ぎてから「こんな少年」みたいな思考を続けるのだろう?

コロナで内酒が増えたせいかもしれない・・・。それも良いか・・・なんせ、人間という動物は 文明発祥以来、「命よりも経済大事」として生きている稀有の生き物ですから、何かイロイロと考えてしまうよな・

Cogito erugo sumなんて今さら気取っていたら、孫達が何と言うか? 酒狂い?・

つれづれ続けます

PS;俺の食は一椀の味噌汁にあり。

今昔#47 Jikowsつれづれ話 「虐めた相手の親はヤクザだった・・・(2900字)」 中津さんそん 中津さんそん

 

僕は中学二年、同じクラスにかなりムカツク奴がいる、だけど、そいつの親父はヤクザだからチョッと迂闊に手出せないんだよな山田君と言います。。。

山田君は足が悪い。釣り人形のようにヨタヨタ歩く、体育の時間はいつも見学です。

痩せていて色が白いから見た目はひ弱ですけど、実際は凄いほど強い男です。学校の廊下階段は誰の助けも借りない。階段の上り下りなどは、まるでサ-カス少年です。

手摺につかまって蟹の横バイなんだけど。

 

その降りる時は。二・三段どころか、時には十段ぐらいも一度に降りて見せることもある。。どうするかというと手すりにつかまって跳ね上がる、そして宙に浮いている間に スルスル-と腕の支えだけで下るのです。皆は喜んで手を叩きます。お茶目なユ-モアもあるのです。

 勉強が又すごい。国語英語数学のテストは何時も学年トップです。

昼休みには 何時も一人で難しそうな本を読んでいます。

舐めて掛かったら 飛んでもないことに為る事を皆は知っているから 苛めなんてことは絶対起こりっこないのです。

 あの父親のことだから 必ず何か 必殺技を教えているに違いないのです。

一度山田君の喧嘩を見てみたいものです。凄いだろうな---!

でも やはり ムカツクことに変わりはありません。

 

 今日は學校にいくことにします

朝の校門で 又山田くんち親子三人に出あってまいました

 山田君は車いす登校です。正門まで親が押してきます。校門からは 山田君は一人で歩いてくるのです。学校に入ってしまったら 例え、山田君が転んだとしても 親は助けに駆け寄ることはありません。

下校の時間になるとどちらかの親が校門の脇で車いすとともに待っています

今日みたいに雨の日でもこのシ-ンは必ず見せつけられるのでした。

 

雨で体育は自習時間です。先生は居ません。教室は理由もなくはしゃいでいます。

誰か黒板の前でお笑いをやっています教室は拍手拍手湧いております。

 

全然似ていない。「降りろ!」とヤジが飛ぶ。

すると晴美が『お次の番だよハイ私!』と、一人漫才をやりだすがぜんぜん面白くない

晴美を無視して教室は「チャップャップ」とはやし立てます。チャップとは少年のあだ名です。子供たちはチャップリンと言う喜劇俳優を知りません。チャップとは 彼の愛称であることも知らない。少年がチャップと呼ばれるのは チャップリンの真似がうまい芸人に姿恰好が似ているに過ぎないびっこガニ股でドタバきだけなのに…。

御呼びが掛かると悪い気はしません。何時もの通り始めました待ってました、拍手。登場です

ですが、少年本人は「なんか変だ?どうも調子が出ない」。体調の悪さに気が滅入ります。

知らず知らずの中に、少年の芸は山田君の「びっこ」になっているのです

教室は気づいていませんが、少年は慌てます『どういう事?』

俺は障碍者の真似をするようなゲスじゃない・・・・

ですが、焦れば焦るほど、教室は沸いてきます。割れんばかりの拍手。

身体中 脂汗でビッショリ。自分で自分が何が何やらわかりません

泣きたい!

少年の泣きっ面がプロの芝居なのでしょう、益々うけます 拍手。。

教室の騒ぎを廊下の窓から清水先生が見ていたのを誰も気が付いていません

「ガラ、ガラ」と開けると清水先生が飛びこんできました

少年を引きづり降ろすと滅茶クチャの平手打ちです。

教室はいっぺんに静まり返りました。余りの激しさに 誰もが「先生は狂っている」と思いました。このままでは死んでしまう。

この時の騒動を聞きつけて大人たちが駆け付けたので 何とか事は収まったのでした。

事件の噂はアッという間に広がりました

「暴力教師云々」

教育委員会が来る、人権団体が来る、マスコミがわんさ来る。

連日見慣れない顔がうろついて、学校はいっぺんに感じ悪くなりました。

それにしても少年は落ち着きません。

山田君を傷つけてしまった罪です。それも 相手の障害を口にするなんて最低の人間です。恥ずかしくて 世間様に顔出しできないよ

はやく山田君に謝りたい。親や学校の仲介なしに直接本人に頭を下げたいのです。山田君の父親が出てきらヤバイけど。。

少年の父なんか道でおじさんに出会ったりするとペコペコ頭を下げて道を譲っている。

山田君処は僕と同じ町内であることは先に言いました。利用している銭湯もおなじです。

だから当然悪い予感がありました。

案の定山田父子に出会ってしまったのです。風呂場で、しかも素っ裸です。もう逃げられません。

「ヤバイ」

率直に謝るしかない。小細工の通じる相手ではないのです。

真っ裸で山田親子の前に直立不動の姿勢を取りました。

 「ごめんなさい、僕が悪いのです」精いっぱいの勇気です。

ところが、おじさんは少年をジロリと眺めて、黙して語らず<なんだ このガキ?>と言わんばかりの顔付きです。

口も利きたくないほど伯父さんは怒っているに違いありません

そりゃ障害の息子を虐めた奴を目の前にしたら誰だって切れるでしょう・・・

生半可なことでは許してもらえない。「どんな罰でも受けます」少年はいきなり土下座をしたのです。しかも裸です。。

少年は小さい時から立派なヤクザに憧れていました。ですから無意識のうちに子供らしからぬ格好をつけてしまったのでしょう。裸の少年に土下座されては大人の方が困ってしまう。

おじさんは 怒っている顏ではありません、妙な展開にキョトンとしています。

 どういうことだ? と息子の方を見ると きまり悪そうに下を向いて黙っています。

おじさんは 事件のことは真正に何も知らないのです。山田君は <苛められた>ことなど一言も親に話してはいないのです。

 おじさんは「そんな恰好しないで起きなさい

何も知らないでゴメン。よかったら おじさんに説明してくれないかな?」

  「ワッハッハッハ-----」。湯屋をヒックり壊すような大笑いです

息子の頭を良く我慢したな、と言っているように撫ぜながら

「キミもよく言ってくれたな。勇気のある男の子じゃ」と褒めてくれた。

僕は本当の男の人に、「お前は男だ」と言われたのです。一生の感激です。

おじさんは「それにしても、君のチャップリンは余程下手糞なんだな」と笑う。「とてもお笑い芸人にはムリだな」(芸人なんか、なりたくないや)

そうだ坊ず。良いことがある。

今度の悪さの罰として、おじさんの背中を洗いなさい。

下手糞芸人には修業が必要じゃ。背中流しも大事な内弟子修行じゃ」

 

おじさんは一人ご機嫌です。背中を洗えと言われても、少年はこんな化け物みたいな背中見たことないからビビって近つけない。

山田君に聞くと

笑って答えない。まさか?と黙って突っ立っていると

「早くヤレ-」のおじさんの催促です。

解ったよ、やりゃいいんだろ、少年は半分目を閉じて、手を飛ばした時

後から山田君が[気味悪いだろう?これ刺青を消した痕だよ。危ないことないから大丈夫だから・・・

おじさんは上向いて目を閉じているだけです。

観ているだけで震えがくるのに洗うとなるとどうしても触らないわけにはいかないだろう

さてどうするか?おじさんは、二人がモタモタ困っているのに知らんプリです。

結局少年は山田君とショマ・ショマありましたが協力して、云いつけ通り背中を流し終わりました。

おわり

PS; 本文は`’19.11月のブログをrewriteしました。

今昔#46 Jikowsつれづれ 「真夜中 調理場で一人酒」 中津さんそん

酒は一人に限る。山も単独行に限る。

少年の頃からそうだった。人間関係の苦手な野郎には必然の道です。 特別寂びしくもないし

孤独でもない。 頭の中はにぎやかなものです。一人でいるからと言って 世の中に認められていないわけではないし、。 ちゃんと働いているし 僅かながらも税金も納めている。もっとも社会に認められていると言っても それは路傍の石どころか 一つまみの砂にも程遠いものですが。 御多分に漏れず 夢ばかり大きくて中身がない中身がなくとも 一人酒の心は知っているつもりです。 六甲山で山荘の調理場をやっている時 一日の最後 調理場の後始末も終わり一段落すると つい酒に手が伸びる。 不思議なものでこの時誰か人がいると酒はやりたくない。 サッさと自室に引揚げ 部屋で飲んだ方が酒は美味いし落ち着くだろう。 同僚連中が早々に居なくなったりしたものなら 己も退場したら勿体無い。千載一遇のチャンスとまでは言わんけど貴重な夜ですよ、一人だけの調理場の夜なんてのは・・・

んてこんなものです。これを折りたたみのアルミ椅子に正座して しかも電気は一つだけを残してあとは消して暗くする。なんて稚気丸出しの一人酒です。これがよい。

 二十歳一寸過ぎで自殺まがいの死に方をした幼友達の墓前に一人たたずみ飲む酒は 詩の原因を知るだけに怒りというか しかし この老いになってしまうと“やり切れない”だけになってしまいました

。これも昔になりますが 単独行の一人酒も慣れたものでした。

八が岳赤岳の鎖り場で最中急に酔いが回ってきたのです。周囲を見回しても人影はありません

単独行なんかやっていますと 何時も前か後ろにパーティの姿がみられるものですが そんなとき「エイ、うさん臭い奴等よ」。ナンてぼやいていたのに この日は酔いの廻った自分は

滅茶苦茶な恐怖に包まれたのです 。さしたる難所でありません。何時もなら鼻歌交じりの山です。 今もって 何故あんな恐怖に襲われたのか理由は解りません.私はその時以来山

での朝酒昼酒はやりません。身体が受け付けなくなっているのです。朝酒の山なんて沙汰の限りですよ、こんなことも気にかけないお粗末若者だったな、俺は恥じるのみ・・・

なのに 調理場では今もって朝酒昼酒は 量こそ減ってはおりますが健在です

 どうやら 岳人と料理人との密度の違いでしょうか?

           つれづれ続きます

 

 

今昔#45 Jikowsつれづれ語り『お母さんが家出をしました・・・」3500字 中津さんそん

 

 

(はじめに)

当ブログは 昨年三月に『母を尋ねて三千里』の名でブログしたものです。ところが昨日

「母を尋ねて三千里」という題名のテレビ・アニメが存在することを知りました。世の中には似たようなことを考える方が多いのだな と思ったのですが やはり自分でも何となく落ち着きませんので急遽rewriteしました。

 作中の女の子は今では大一の18才で賢い姉をやっております.この小文は当時やり切れない思いをさせられた近所の家出事件を小生3500の内輪話で現実を薄めて書き留めていたものです。

自分の好きな「小話」なので アニメ知らない老人は困りました。

(本文)

三人キョウダイです 一番上は小6のお姉さん、二番目は幼稚園のお兄さん、末っ子はまだオムツの一歳の男の子です。この子の存在が厄介なのです。なんせ100%自由人なのですから目が離せません。

 お姉さんは學校から帰ると ランドセルを放り投げ即遊びに行こうとします。

お母さんに呼び止められました

「お留守番お願いしま~す」

エッ アッ そうか。今日は 弟の水泳教室だった。母は弟をプ-ルまで送っていく。以前はチビも一緒に連れて行ったのに今は違う。弟の水泳練習はほとんど見ていない。なんか知らないけど 母は読書に夢中になっているのです。チビは邪魔なのです。

 母の自由時間は大事にしなければならないことは 子供たちは知っております。だから 留守番ときたら 必ず子守ですけど お姉さんは文句はありません。

 

苦手な電話が鳴りました。 お母さんが留守なのだから自分が出るしかない。

「はい ナニナニです」

「お母さん居ますか?」こっちをテンから子供だと決めつけている。カチンとくる

「今トイレです」「じゃ- 待たしてもらいます」

「待っても無駄です お母さん便秘ですから・・・」

ガチャンと切りやがる。 ざま-見ろ・・・

 「ピン・ポ-ン」

今度は誰だ? 留守番をしている時のチャイムはやたらに大きい。 多分 化粧品のセ-ルスだろう---

「お母さんは留守です」

「じゃう お嬢さんに説明書を預けていきますから 此処を開けてください…」

優しい声 きっとイケメンに違いない雰囲気です。 だけど こうゆう男が危険なのだと お母さんに散々注意されているので 「私には解りません」と絶対ドア-をあけません・

相手は何やらブスクラ言って パンフレットをポストにねじ込んで帰っていきました。

助かった。ホッとしました。

留守番の時には 如何にしてこのチビを守るか? 私の責任なのです。

食いついてやるか 抱っこして逃げるのがいいか だけど二人とも子供だから 大声出して「助けて…!」が一番だろう。

何でもやってやる・・

 それにしても お母さん 早く帰って来て欲しい。

プ-ルから帰る時間はだいたいは決まっている。なのに今日は遅い。どうして? 嫌な予感がする。

交通事故? 弟が溺れた。

末っ子の方はお姉さんの気も知らないで「キャ-キャ-」ご機嫌であります。

 実のところは 彼女がパニックになるほど時間は経っておりません。今は六時四十分近い 長針と短針を読み違えているのです。

「もう八時じゃないの---」 彼女らしからぬボンミスです。

 

 姉は直ちに勇気ある行動に出ました。

チビをベビ-カ-に押し込むと 母を求めてプ-ルに走ります。

マンシヨンの玄関で顔見知りの小母さんに出合いがしら「あら-どうしたの?」と声をかけられても 返事の余裕もありません。そのまま一直線。

 ところでプ-ルでは、「もう、とっくに帰りました」と冷たい答えです。 お姉さん半ベソです。

 お母さんとは出会う筈は無いのです。

母はママ友とのお喋りが長くなってプ-ルを出るのが遅くなったのです。だから すこしでも早く帰りたいと 道は悪いけど近道を選んだのでした。何時もの道ではありません。

「お母さんが何処かに行ってしまった。 三人の子供を置いてどこかの兄さんと家出してしまった!」

半狂乱です。

 

 この突然変化には理由があったのです。

この一週間 お姉さんの頭を離れない事件があります。

友だちのお母さんが家出をしてしまった事件です。パートに行っているス-パ-の若い兄さんと居なくなってしまったのです。

 友達は二つ上の兄さんと 朝早くから夜遅くまでスーパ-の従業員口でお母さんを待ちました。

お母さんは帰って来ませんでした。友達は學校にも来なくなりました。

この間道であったので 「元気--?」って 話しかけたのですが 全然返事をしてくれませんでした。ガリガリに痩せて まるで別人でした。

 このことがあって お姉さんはピリピリしているのです。ん

 だけどお姉さんの違うところは ここで「強くならなければ チビを一体だれが守っていくんだ・・・・」と 泣きそうに口を引き締める頑張り屋の処かもしれません。(私は泣かないから・・・)

困った時には交番に行く。

突然ガタビシ走り出したので チビさんはビックリ。でも 荒っぽいのは大好き、ご機嫌である。

 交番です

「お母さんが居なくなったの・・・」

いきなりベビ-カ-が飛びこんできて 半ベソの女の子が助けを求めてきたのです。お巡りさんもビックリ。

一見 迷子になるような年齢ではない 「お母さんが居なくなった・・・」

ハハ-ン また母親の家出ですか…警察は慣れています。

「嫌な世の中になったものです。最近この手の事件 多くなりました」と渋い顔です。

 お巡りさんは兎に角二人を中に入れて話を聞きました」

「ちょっと待っててね」と 何処かに電話をしています。

 

 話代わってこちらはお母さんです。

家に帰って見ると留守番の二人がおりません。「あらあら・・」と首を傾げますが別に心配はしません。どうせ 近くのス-パ-にでも行ったのでしょう。でも鍵が掛かっていない。あの子にしては不用心な。まあ いいか。部屋が荒れてるわけでもないから。母は長女を信頼しています。

お母さんは 鼻歌交じりで夕食の準備に取り掛かります。

それにしても長い、もう一時間近くも経っているので ちょっと不安になっても来ます・

もう少し待ちました。 自動車事故?

 実は この四・五日の娘の様子が気にかかっていたのです。さしたる用事があるわけでもないのに私にくっ付いてくる。 母親にベタベタする年齢でもあるまいし、とは思っていたのですが・・・友達の母親の家出騒ぎは耳にしていましたが。

 ス-パ-でないとしたら もしかしたら私を探しに出たのではないか? 母親の第六感です。

 直ぐに水泳教室に電話をすると 先ほど それらしい少女がベビ-カ-を押してきたけど ベソかいて帰りました

と言います。

 やはりとも思うし オッチョコチョイとも思うし やはり我が子だとも思います。

 母は即 行動に移りました

『ちょっと探してくるから 留守番頼んだわよ』

急に言われたって 留守番なんかしたことのない坊主は。

知らない と言おうとしたら母の怖い顔にぶつかって 思わず「オ-ケ-」と言ってしまいました。

あんまりアッサリ返事をさえれて お母さんの方が「大丈夫?大丈夫?」なんて念を押す慌てぶりでした。

母親は通学路を逆に探しましたが 会う筈ありません。プ-ルに回りましたが やはり無駄です。

今日の母娘は 間が悪いというか ヤルことナスこと 全てチグハグです。 世の中 こんなこともあるのでしょう。

 

 丁度この頃 マンションにお巡りさんが確認に来ていました。

幼稚園ぐらいの男の子が一人でゲ-ムをやっております。お利口だな! この年齢で留守番かよ。

「お母さん どうしていますか?」

お姉さんと下のチビを探しに出て居るという。 これで警察官は”お母さん探し”の顛末を略想像できたのでした。

苦笑しながら緊急の電話を返しておりました。

 お母さん お姉さん 幼稚園の弟 一歳の末っ子四人は 無事我が家に出会うことが出来ました。

 これで めでたしメデタシの筈でした。

ところが お母さんが『ありがとうございました ありがとうございました』と 米搗きバッタみたいに礼を言い お巡りさんも「よかった ヨカッタ」と帰ると 母の爆弾が破裂したのです。

母親自身も何故自分が切れてしまったのか解らない。子供たちも 何故怒られるのかサッパリ解りません。

中でも 小六のお姉さんは(まさか お母さんが家出したんじゃないか…)なんて お母さんに聞けないじゃないの・・・と泣きたくなるばかりです。

母親自身は子供の心が 嫌と言うほど解るのです。 自分も同じ小六の時 事故で母親を失う悲しみを味わっているからでした

母は夕ご飯の支度に入りましたが 子供達には背を向けたまま

「お母さんは 世界がつぶれても どんなことがあっても あなたたちを捨てたりしません」と 半泣きでした。

今日の晩御飯は 予定変更で人気のハヤシ・ライスです。 何時もより肉がいっぱい入っておりました。

           おわり  。