今は昔#51 Jikowsつれづれ記「大陸孤児(6000字)」 中津さんそん

 

 

(梗概)

満州国が消滅してから かれこれ80年がたちます。

満州国とは 中国大陸の東北部に 1932年日本が主導して建国した”訳あり”国家でおんな実は日本陸軍の傀儡政権でした。 日本本土からも二百万人が移住してました。

 ところが 1945年日本の敗戦によって満州国は崩壊 結果大部分の日本人は日本本土に帰国しなければならなくなったのです。引き揚げです。

かっては デカイ面していたけれど 今は戦争に負けた”惨めな”負け犬です。帰国と云ってもスム-ズに行く筈はありません。 何しろ 大陸人にとっては他人の家に図々しく入り込んできた盗人みたいに思われていたのですから 現実は「石もて叩きだされる」ような逃避行であったのでした

 五体満足な男性はおりません ほとんどの男は軍隊に召兵されていました 残っているのは 老人病人オンナ婦人赤子幼児童です 

こんな人間が 歩けますか 動けますか 走れますか 戦えますおおか 知恵は回りますか?

 この物語は 日本に引き上げてくることの出来なかった”子供”のお話です

 

(本文) 

 清水剛(5歳)の家族7人は 敗戦の時には旧満州奉天市(瀋陽)に住んでおりました。

父親は満州国の警察関係者でした。 母親は48歳 子供は五人います。18歳の長男と13歳の次男は日本の仙台に留学中で不在です。 20歳の長女は病弱で入院中です。ですから 家にいるのは16歳の下の姉と剛と両親の四人家族と言うことに為ります。

 1945年⒏月15日、日本敗戦満州国崩壊です。

 盛者日本人は一夜にして惨めな敗戦国民となり原住民からは憎しみ の仕返しを受け 占領軍のロシア兵からは理不尽な暴力を受ける羽目となったのでした。

警察関係者であった父親は当局に逮捕され 即日路上で公開処刑されました。背中に銃口を突き付けての銃殺です。 五歳の剛には見せたくない光景ですが 16の下の姉は一時間前に中国軍に看護婦として徴用されたので 父親の最後を見送ったのは母と剛の二人だけだったのです。下の姉は この時以来音信不通です。

 それからの半年近い”生きる“は筆舌に尽くしがたい 。大陸は共産党軍と国民党軍との内戦が再開されたのですが がいして 居留日本人に対しては軍律は厳しいものでした それに反して 占領して来たソ連軍のロシア兵による行動はそれこそ人倫の外にあるちきしょう道であったことを歴史に記すだけにして詳しいことは省略します

無防備都市下での生存は 今も昔も同じです。

 やがて 本土への引き上げが怒涛の如くに始まりました。

引揚は 近所隣組の家族百人内外の団体行動となります。 団の結束の度合いによって 個人の命が左右されたとも言えるでしょう   団長さんの人格次第だったのでした。

満州中で 団長は残酷な決断を求められたのです。

剛の家にも 世話役が来て言いました。。 

「二人のお子さんのうち片方だけなら 団は責任を持てるのですが・・・」

この家は 条件が悪すぎます。 病臥中の二十歳の女性を運ぶだけでも四人の担架要員が必要なのです。足萎えの5歳の子供 と女親です。男手はありません  こんな家族も何とかしよう と団は考えました  満州隣組は絆は強かったのです。

 母が子供を見棄てることが出来るでしょうか?

家族3人の中国大陸残留も考えました。 これとて 独身男ならいざ知らず 女所帯三人では無茶な話です。

その夜 長女は風呂場で手首を切ったのです。 自殺は母親の予感で間一髪で未遂に終わりましたが・・・ 。 母娘は 抱き合って泣き明かしました。 母親は覚悟を決めました。 病臥の気娘を一人敵地に残して親は逃げるわけにはいきません。子供は一人として殺さない。 一家心中なんてやらん。 「死んでたまるか・・・」

 

 

 姉の自殺未遂によって 剛は何か知らないけれど「大変なこと」が迫ったことを知りました。 お母さんの顔は 今まであんな怖い顔見たことありません 今でもニコニコするけど あれお母さんの本当の顏じゃない。

この時から剛は 一瞬たりとも母親から離れません。 便所は一緒です。母一人でも行かせないし自分一人でも行きません。寝るのも一つ布団で一緒です。 こんな躾けの悪い子ではないのに でも母は何にも云いません(この子は私に捨てられるかもしれないと気付いているのです) 親は不憫でなりません。

なのに 末っ子は大失敗をやってしまいました。

剛は母親と ある金持ちの中国人を尋ねていました。大人(taijinn)です。

お茶とお菓子が出ました。 それが 剛の大好物である粉砂糖のたっぷりふりかかった万頭だったのです。老人に勧められるままに ニコニコと口に運びました。席には同年配の女の子もいて 和やかな雰囲気に安心しきっていました。 母親が耳元で「ちょっと おかあさん お手洗いに・・・」と言った時にも「うん--」と何の怪しみもなかった・・・

母親は それっきり帰って来ませんでした。

捨てられた と知った剛は万頭を吐き出し母親を追いかけました。

老いた中国人夫婦は子供を抑えます。 ですが 半狂乱となった子供の力は老人の手には負えません 隣の部屋から屈強の若者が助けに入ったのでした。

少年は 三日三晩泣き狂いました 飲まず食わずの狂人日記です。

時に泣きつかれ声の静まることがあっても 顔を近づける老人の息使いに反射的に泣き叫ぶあり様だったのでした。。

少年の憔悴を見ると 剛の生きてるのが信じられないほどです。 肋骨は浮き出し 

肉と言う肉は消え失せ 目だけが大きく光る黒い塊の頭 まるで枯れ木の案山子であった

眼を開けると 自分を優しい目で見守る初老の男女です 剛の新しい父と母でした

 

日本の母親は 病の娘と日本へ引き揚げました 団長さんは 病臥の娘を運ぶ担架要員を準備したのです 顔見知りのご近所さんでした。団長に母親も頑張りました。

  

皆さんにも各自家族がいます。荷物もあります。子供もいます。 他人の面倒見ている余裕はないはずです。ですが。この環境の中では隣組は好く助け合いました。

 引き揚げは レイプと略奪に怯えながらの逃避行です。 母はレイプの襲来には進んで若い女たちの防波堤になりました。 何かお返しをしなければ、の気持ちなのでした。

この団長さんとは博多の港で別れました。以来 音信の交流はありませんん

兎にも角にも 母は五人の子の命を救いました ( もし開拓団の家族でしたら、こんなことははありえなかったでしょう。)

 ただ 二人の子はまだ異国の地におります。

16歳の娘に

は 母は「中国の軍隊なら大丈夫…」と思っております。 「女は命さえあれば 何処に行っても上手くやって見せるわヨ」と 自信の程をのぞかせるのでした。

 問題は 五歳の足萎え末っ子です。

母は「必ず迎えに来ます 親が子を捨てることはありません」。

 

  敗戦 戦後処理の日本のことは省略します。 剛と母親の個人史を語り続けたいと思います。

 引き揚げてきました母親と病臥の娘は父親の実家に世話になりました。

日本に留学中であった二人の息子とも無事再会を果たし 二人は祖父の援助で

大学まで進み社会人となっております。

病身の長女は健康を回復 町役場に就職 やがて結婚 隣町に住んでいます。

 母親は二人の息子の自立を機に東京に一人移住しました. 飯場(建設現場)の賄おばさんの仕事を見つけたのです。 実家の舅姑もなに今さらと意見したのですが 本人の覚悟は堅かった。 実は 彼女には新しい人生の誘いは多かったのです。梅蘭芳に似た美人です。世間はほったらかしにしません。

しかし 母の頭には大陸に残してきた末っ子の事しかないのでした。

 その大陸に残された剛少年は 今では二十歳過ぎの好青年です。 あの日一緒に万頭を食べた二歳下の妹は結婚して北京にいます。 青年は養父母と三人暮らしです。

養父はかなりの老いですが 未だに小さいながら煉瓦工場を経営しております。

根が侠客肌だから 働いている者にも勇み肌の若者が多い。

剛が「小日本鬼子!」と苛められて帰ってくると

『うちの若に何をするか-----』

と 棍棒持って飛び出してくるので 中国人は剛少年には手を出さない。専ら 陰口だけです。

苛めるのも中国人 守ってくれるのも中国人です。

 

 青年に恋人ができた頃でした 文化大革命の嵐が吹き荒れだしたのは。旧体制を改革する運動です。ですから 養父のような侠客まがいの小市民はひとたまりもありません

 生活は一変しました。一家は家財を没収され 東北奥地の集団農場に追放され 青年は危険なダム工事に回されました。 恋人は去り 何故か妹までが離縁されて北京から戻ってきました。

剛は 家族が受けた災難は 自分が日本人であるが故の「とばっちり」であると認めざるを得ないのです。 なのに 父も母も妹も剛を責める気配は微塵もないのです。

父母妹は慣れない労働に体調を崩し 一家の生活は青年の双肩にかかりますが 剛は「大丈夫 大丈夫 任せておけ-----」  この家族は俺が守る。 どんなことがあっても絶対捨てたりはせん------」

青年は病気がちの両親と出戻りの妹を残し危険なダム工事を志願しました。より高い給金を期待してのことです。 人の二倍は土砂を掘った。夜まで働いた。

 ダム建設のコンクリ-ト打ちは時間との勝負です。コンクリ-トを下から順々に積み重ねていきます。セメントと土砂を混ぜた生コンクリ-トは時間を置かずにダムの型枠に流し込まなければならない。 コンクリ-トの固まりは今は昔と違って恐ろしく速い.一旦工事が始ると 少々の人身事故ぐらいでは操作をストップさせることはできません

 剛はその生コンの流れにに流されたのです。 最悪の結果が予想されます。 人間はダム突堤の中で長く歴史に残るのです。

剛は瞬間 照明に光る岩肌に巨大な手を差し出す父を見ました  父の差し出した手は 生コン流しの樋のつっかえだったのです。

樋の支柱にしがみ付き 青年は九死に一生をえました。まさに奇跡です。 当時 現場ではかなり評判になった事故でした。

 無茶とも言える剛の頑張りで、一家は生計をたてなおし また一家四人の生活に戻ったのでした。

 

 それから 十年も経ちました。

剛は すっかり小父さんになっておりますが 何時もニコニコ家族をやっております。 まだ嫁さんはおりませんけれど・・・・。

 

 世の中は変わりました。

大陸には混沌の中に共産党政権が誕生しました。四年後の1949年です。国は出来ても大陸は静かならず、日本人孤児の存在など考慮される時勢ではありません。肝心の日本政府が孤児の存在には何故か目を向けません。

日本と大陸政権との交流など完全断絶です。

 世界政治の潮流が変わり 日本と大陸が国交を回復したのは二十数年後の1972年です。 時の総理大臣田中角栄 様様です。 ですけど 五歳の剛少年は四十路近くのの中年おじさんになっております。

国交回復と言っても 渡航国内旅行が自由な国柄ではありません。検閲付きの音信のみです。

民間は 政治の都合を待ってはおれません。即 行動を始めました。 庶民の知恵は天の心です。 どんな術数でもやってやるぜ--- ほんと 時にはスパイ騒ぎなんかもありました。この間のもどかしさが生んだ物語は枚挙にいとまはありません。

長野の僧侶、山本慈昭住職のご苦労などは長く記憶されるべきです。。 孤児の肉親捜しはどこそこで親と離れたみたい・・・」とか言った「あやふや」なものばかりです。孤児からの親を求める悲痛な手紙から、何らかの手掛かりを類推しての作業です。

 そして 孤児と在日肉親との実際の対面が実現したのは 1975年でした。

親と別れて三十年。幼童児にとって親の顔さえ定かではないのは当然でしょう。

 身元確認は専ら聞き取り調査と精々が血液検査ぐらいでした。当時DNA鑑定は未だ確立されていなかったのです。

 聞き取りの情報なんてあまりにも心もとないものでした。

曰く どこそこの駅で知らない中国人の小父さんに引き渡された どっかの家に置いてきぼりされた 捨てたのでもない 売ったのでもありません 緊急避難の別離でした。別離を悲しむ余裕もない切羽詰まった別離でした。

親と離れて中国人に拾われて農奴に近い身分に為る事もありました。しかし それでも生き永らえた子供は幸運であったのです。あるものは川に流され 生きながら大地に埋まり 母はわが子と共に燃え盛る我が家に飛び込みました。赤子の多くは野犬のえさとなったのです(私は中華の犬料理は絶対に食べません)

残留孤児たちの間に 「日本帰国」の噂が流れると 日本子女たちは拠ると触ると 日本帰国の話ばかりです。

ところが 剛自身は無関心冷たい態度なのでした

剛には「日本恋しい」の感情はすでに薄れつつあるのでした。 今の家族以外の人間関係を考える余裕はないのです。

養父母は そんな息子を見て(我々に遠慮しているのではないのか?)と 不憫になります。 父母は剛には内緒にして日本の母親に手紙をしたのです。。本籍地あてでしたので 戦後の町村合併で消えた地名も多く 随分と回り道をしましたが

母親のもとに届いたのです。 母は狂喜しました。

 実は 彼女は国交回復以来彼女なりの工夫で大陸に色々とコンタクトを試みてきたのですが 養父母の行方は杳として知れないのでした。 それが 向こうの方から連絡がやってきたのです。 東北奥地の農村へき地でした。

早速 二者間の文通交流が盛んになりました。 ですが 肝心の剛の態度は心もとないのです。 

 何とかカンとか言って 剛たち五十人ほどの孤児が訪日した時には 孤児たちの身元確認の事業が始まって二年近くたっておりました。

 場所は東京代々木の青年会館です。

剛にとっても母にとっても これは当然確認される事務的セレモニ-みたいなもでしたが 確認証左の時 二人の色盲遺伝が話題になり 担当官が「これほど 確実な母子証明はありませんな・・・」と祝福の笑みを浮かべたのでした

 訪日孤児団は 身元が確定すると実家に宿泊が許されます。母は東京立川の都営住宅です。

 六畳一間に簡単なシンクのついた築三十年の木造アパートです。便所は共同、風呂は無し。平成の今どき こんな公営住宅はありませんが 終戦直後には普通の住居でした。 母は「ここでは私が一番の古株よ」と笑いますが、ここで一人彼女は息子の帰りを待ったのです。

 部屋の様子を見れば 全てを理解できます。

安物の簡易タンス オモチャみたいな独身用座卓 鏡台みたいなものはない 唯一生活の臭いがするとしたら六インチのテレビくらいであろう。

 その夜の食事は剛の強い希望でテンプラとなりました。テンプラは清水家では特別のご馳走なのです。満州時代 父が未だ存命のころ 座敷の中央で父と母が天ぷらを揚げ始めます。それを四人の子供が囲んであげたてのテンプラを食べる贅沢な饗宴です。剛は この経験はない筈です。なのに何処で耳にしたのか 天ぷらを所望したのです。母は「ハイ いいですよ」と殊のほかに喜んだのです。

 寝る段になって 母は「今晩だけは どうしても剛と一緒に寝る」と言い張ってダダをこねるのです。息子は困りました。図体だけでも母の二倍はあるのですから

 それでも結局 二人は布団をくっ着けて 母は一晩中息子の背に顔を埋めていました。。

 

  孤児訪日団の離日する羽田空港は一種異様な雰囲気です。

清水母子は 自分たち運命が 開拓団の人たちと比較すると余りに恵まれた環境にあることに 自然黙りこくってしまうのです。

「僕、どうしていいか解らない」 ポツリと剛は半べそです

「良いですよ。あなたの思うようにやってください」

母つれづれ記は自分の立場をわきまえております。

「僕 やはり日本には戻れません」

「ハイ 解っております。お国のお父さんお母さんを大事にしてください」

息子は左足を引きずって搭乗に向かいます。その後ろ姿は 母を逃すまいと必死にしがみ付いていたあの足萎えの五歳の末っ子でした

おわり

*本文は一昨年十二月三十一日にblogしたものをrewriteしました。