今昔#44 Jikowsつれづれ 「新聞少年」 中津さんそん

 

 今の時代 新聞少年なんて言葉は全然聞かれない。おそらく若い人は知らないかもしれないし 現代人の中にも新聞少年の経験体験を持つ人は無しに等しくなってはいないでしょうか?

 新聞少年とは読んで直感されるように「新聞を配達する少年」を意味する・ 令和の今 各家庭に配られる新聞は新聞販売店の職員によって配達されています。見ると 仕事は多くは自転車で中にはバイクの人もおります。職員は当然皆さん成人大人です。子供の姿はありません

今から70年前 太平洋戦争が終って世は朝鮮戦争の最中でした。

当時、新聞は子供が配達をしていました。大人の仕事ではありません。。時にはご婦人の姿を見ることはありましたが 大の男がやることは先ず絶対にありません。」。第一 給料が給料だから家族で食っていく職業には見られていません。

少年は朝4時過ぎに起きて出かけます。夏は良いけど冬の寒さは ほんに我慢の限界だ、。

新聞に広告チラシなんかをいれて(これもプラスアルファーの給金になるから大事です)

200部の新聞を小脇にして担当地域を配達するのです。終わるのは7時を回ります

給金は月給朝刊は2000円、夕刊は1500円だった。新聞の購読料はたしか330円だった時代ですから、まあガキの給金なんてこんなもんですわ

今で言うアルバイターみたいなものです。。販売店の主人はみんな大儲け金持ちだったから 何やかやと陰口叩かれていましたっけ。。

 現代は児童福祉法で子供は働けない。だから こんな世相は二度と見られないでしょう。

。俺は13才だった。今思うと【よく頑張った】と月並みだけれども褒めるしかありません。

新聞少年なんて言うとなんか孝行少年みたいで好感が持てるものです。当時 歌でも流行しました 本人も悪い気はしていませんでした 初給料で親父に酒一升瓶を買ったりしていましたから 子供は子供なりに背伸びして恰好つけていたようです。

ですが 所詮13才の子供には体力的に無理です。 眠い。疲れる しぜん学校には気が入らない  風呂にもいかない 顔も洗わん 歯も磨かん。臭い少年が定着してしまった。黄色くなっている歯を 「洗って来いーー」と授業中教師に叱責されて教室を出る時に起きた教室中の笑いを この老齢になっても忘れないのだから児童少年少女のプライドを大事にしましょうよ

やがて徐々に不登校となります。小遣いはあるし 渋谷エビスと盛り場は近いし 本屋でも貸本屋にでもカストリ雑誌なんて子供が見てはいけない本も自由に見れるし 街頭テレビはあるし この世は何も言う事なしでした

しかし 今になって知ります。 中学の学齢期は 人間にとって最も重要な学習時期です。

この時間をスキップしちゃうのは一寸ヤバイんじゃない?

ハイ 確かにヤバかった。

しかし この時期こんなことがありました。。 今では、それが身体中に浸み込み体の一部

なっているのですが・・・

200軒もの家に毎日朝に夕にと新聞を持っていくのです。それに僕は給料を多くするために新聞料金の集金もやっていましたから それこそイロイロの大人に出会うことが出来ました。自慢ではありませんが私自身はあまり恵まれた人間関係の中に育ってはおりません。ですから気障な言い方をすれば【この街での新聞少年人生】は俺の三度のめしの栄養だったのです。。

秋祭りをはじめ盆正月にはきまって日本手ぬぐいに小遣いを添えて「ハイご苦労さん」と手渡してくれるご婦人が複数おりました。街には大きなビール工場があったのですが 其の正門の受付コッテージにいるお姉さんはしょっちゅう冷たいもの温かい飲み物をご馳走してくれました。中でも特に記憶に残っていることがあります。

この町には 著名な大物政治家のお屋敷がありました。私のような少年でも知っている名前です。 屋敷は石垣に囲まれた広大な敷地です。こんな大きな屋敷だと新聞代の集金の時はどうするんだ? 少年の私は怖くなったほどでした

でもまあ良くしたもので お屋敷には賄商品の勘定の支払日は決まっていました。

其の日その時家敷に屋敷にはそれらしき風態の大人に近い少年少女が集まります。総勢20人近くもいるでしょうか あまりにも多いので新参者の自分はビックリです。 着物姿の上品な

年輩のご婦人が出てきて 小僧や女中相手に一人一人「ご苦さな御ひね労さん ご苦労さん ハイありがとう」と支払いを済ませ 何か小りを手渡してくれるのです。

それが湿っぽい勝手口ではなく まるで東映映画でみる旗本屋敷の正面玄関みたいなところで 使用人ではなく 先ほどの婦人、即ち政治家の令夫人自らの振舞だったのです。

少年は痛く感激しました。玄関の能舞台みたいに広い板敷が今でも目に残るのです。

婦人のひざを折り我々と同じ目線で丁寧語を使ってくれる大人の人なのでした。これが平等の原点なのでしょうか、 これは後年想ったことですが・・・

 

新聞少年には 「新聞を使って バリバリ・・・ッ」と小気味よい音を立てる隠し芸があります。 私が60才頃でしょうか 仕事が一段落しての呑み会でこの芸を披露したことがあります。 此れは超単純に見えても素人には無理なのです。 謂わば新聞少年のアイデンティティみたいなものです。ところが同席していたアメリカ人が「俺にやらして下さい」。と俺と同じことをやったのです。私も驚いたけれども 二人の間はトントン拍子に話が弾み諸般の問題が一気に」解決したことがあります。

「そうか おまえもか?」と私は信用されたのです。。

幾分得意げな彼の話によると 彼の故郷の街では家庭教育社会勉強の一環として 子弟に新聞配達をさせるのが習慣なのだそうです。これは貧乏金持ちは別として【良家の出身】である証拠みたいなものらしい。彼の喜こび顏の深意がよくわかりました。

それに引き換え 東京の新聞少年は貧乏の証みたいで 親は複雑な気持ちのようでした。

私は これで修学旅行は参加出来ましたけれど 黒の詰め入り学生服までは手が回りませんでした。残念でした。

           つれづれ続けます。

PS; こんな小学生的<作文>をブログにしていいのかな・・・?

今昔#43 Jikowsつれづれ語り 「三才児家出をする」2600字 中津さんそん

 

ジュンが行く方をくらませたのは 親子三人で遊園地に出かけた時のことです。無論日曜日で男は仕事は休みです。男はジュンのお母さんとの結婚が決まったので その記念にもと遊園地行は決められたのでした。

 ジュンの母親は二十代半ばと若い まだ学生気分が抜けていない。 母は祖母と西成釜ヶ崎近くの繁華街で「酒場」をやっています。お祖母ちゃんといっても四十代の女盛りです。一見して”訳あり“と想像される母子です。店はアルバイト女性も入れて結構繁盛していました。

 ジュンは三才の男の子ですが男手のない家族の中では大事にされているためか、若様みたいなオットリ顏が何とも可愛らしい。

 客の中に二人の男性が足繁く母を目当てに通って来ることをジュンは気づいていました。

一人は今日一緒に遊園地に行く若い男の沼田さん、もう一人は別れた父と同じ匂いのする料理職人の小野田さんです。

結局母親は若いほうの沼田君を選んだのでした

 

。 その朝 約束の駅までジュンと母親は半分走って急ぎました。沼田の兄さんは

先に来ています。手を振っているのが見えます

「ほら お父さんよ よかったわネー」とお母さんは言います。チョッと戸惑っていると

『お母さんとどっちが速いか競争しようか』と勝手に決めて「ヨーイどん」と手を叩きます。

ジュンは人ごみの中を器用に抜けて お母さんより先に走ります。

日曜日の駅前は 人人でごった返しております

大人二人は無事出会い。「おはよう」とハイタッチですが先に着いている筈のジュンの姿がありません。

此処は以前にも何回も来ていますから慣れている筈です。

「あら嫌だ かくれんぼでもするつもりかしら・・・」と大人は笑っていましたが それにしても遅い 変だーー  「何してんのかしら?」 周囲をキョロキョロするのです。嫌な予感がします。二人が密かに恐れていたことです。

「ジュン ジュン」人ごみの中を探しますけどいません。

お母さんの頭の中は真っ白です。男に任せておれない。

通り合わせの警察官に 「子供が・・・、ジュンが・・・」とまくし立てるけど 意味がさっぱり解らない。

「そうだ、おばーちゃんの処に戻っかも知れない」  家は近いのです。大人二人は走りました。 走りながら母は考えました「それにしても どうして? やはり 小野田の伯父さんなのかな?」。  沼田の兄さんも後を追いかけながら思うのでした「やはり 俺じゃダメなんよ」

 

所変わって こちらは小野田さんちのアパートです。

何かがドアーをトントン叩きます。今日は仕事休みなので布団の中でモタモタしていたのに面倒臭いな とドアーを開けると 「ナニ これ?」びっくりしたわーーー

三才のジュンがこっちを見上げてニコニコしているではありませんか

「やあー」と言った小野田さんの声は幾分泣き節です。実は母親に振られたのは詮無い話としても ジュンとの別れは可成り応えていたところだったのです。

取りあえず【まあ 入れ入れ」急いで部屋を片付け ジュン好物のチェリー缶を開けた

『よく来たなー お母さんは後から来るのか?』

ジュンは返事もしないでチャラチャラ食べている。まあ いいか!  母子は前にも何度も来ているし そのうち来るさーーー

それから二人は二時間ほども夢中で遊んだものです。 小野田さんは ジュンの為に狭い部屋に小さな鉄棒を用意しているのでした。

遊びながら 小野田さんはどうも納得出来ないのです。後から来る筈の母親が一向に姿を見せない。不思議なのは 母親が居ないのにジュンは全然気にしていないことです。 何時もなら親が一寸トイレに立ったぐらいでも後を追うくせに。やはり なんか変である。

 『お母さん 遅いな…?』タメ息交じりに尋ねてみた。

すると『お母さん来ないよ』と驚くほど素っ気無い返事です。

ここと店の間は然したる距離ではないにしろ 三才の幼児が覚えられる道順ではありません。

それを駅から店に戻って 祖母に見つからんように抜け出して 小野田さんのアパートまでやって来た大冒険です。

 

 実は この頃 ジュンの家出は大変な騒ぎとなっていたのです。親の目の前で 子供が忽然と消えってしまったのです。 オカルト遊びじゃ などと冗談なんか言ってる余裕などありません。母親は店にも子供は戻ってないことを知ると道にへたりこんでしまいました

ご近所さんがワンサと集まってきました。考えらる筋は全て当たりましたがナシの礫です。

母は泣くことも出来ない放心状態ですが それでも思い当たることが出てくるのです。

 「じゅんちゃん頼むから聞いてちょうだい。沼田の兄さんと仲良くしね お母さんの一生のお願い」と息子を抱きしめたのは、つい三日前のことでした。 ジュンは何も言わなかった。

無口を幼い子供のOKだと決めつけてしまったことでした。迂闊だった、誰にも言えない反省でした。

男の沼田さんもバカではありません。これで確っきり思い知ったのでした。

 

 話は小野田さんのアパートに戻ります。

ジュンは鉄棒に懸命ですけれど 小野田さんは大人の対応をしなければなりません。

電話をするにしても もしアイツが出てきたらゴウッ腹が立つわなーーー

こちらから歩いていけば途中でぶつかるだろう。 あの母親なら 何か気が付いて俺のところに迎えに来るだろう?        と小野田さんは常識的に考えたのですぃた。

「よーし 帰るぞーーー」

ジュンハ何故か帰るのを嫌がるのでした。それをなんとか納得させて二人は手を繋いで帰り始めたのでした。それでもノロノロ愚図るので抱っこをするしかなかったのでした。

 途中期待していた出会いもなく二人は無事店に着いたのでした。

店の前は黒山の人だかりです

「ジュンが戻ったぞ―――」の大声にピョコンと頭を上げた母親は「あー」とか「おー」とか訳の分からん声を張り上げると 猛烈な勢いで駆け寄ると凄い勢いで息子をボカボカと殴り始めたのです。「お客さんの処になんか行っちゃいけないでしょう」と又バンバン叩くのですが 声ばかり高くして怒っているのですが。全然泣いてもいないし悲しんでる目でもない。子は気が付きました。《お母さんは 沼田の兄さんに見せるために怒っているんだ。それが証拠にはいくら母が叩いても丸っきり痛くないのでした。

ジュンは何か母に悪い事をしてしまったような気がして【お母さんゴメンナサイ】と呟いていました。。

 結局 女親は息子の優しさに甘えて沼田さんと再婚しました。

                   おわり

PS;このブログは一昨年のもの(2019-12-18.遺書四番「ジュンの家出」)をrewriteしたものです。

 

今昔#42 Jikowsつれづれ 「漢民族って何んや?」 中津さんそん

 

82歳の私がまだ二十代の中頃のことです。 何とか用事を見つけては 横浜チャン街(中華街)によく出かけたものです。 若者の狙いは中華よりも街とは背中合わせのギリシャ街にあったと言った方が正解かも・・・。そこは外国航路の下級船員たちの集うクエッション一杯の若者の小屋小屋スペースもありました。その話は別として 必ず立ち寄る処に目抜き通りから奥にずれた洒落たスナックがあります。観光客相手の中華ではない日常の喫茶店でした。 カウンターで安くウイスキーが飲めるのが気に入っていたのです。

その店内に 何時も十歳くらいの可愛い少女を見かけました。。オーナーの家族なのか、近所知り合いの子供なのでしょう。遠慮する風情もなく自然体で本なんか読んでいます いや遊びの雰囲気でしたが…

いつの間にか彼女と話を交わすようになっていましたが それが羨ましいカルチャーショックの始まりでした

彼女はこともなげに言うのです「昨日帰って来たの」 何処から?

それがアメリカ・サンフランシスコからでした。かの地にオバーチャンが居るんだとのこと。

当時太平洋は未だプロペラ飛行機の時代です。そこを 十歳の少女が一人サンフランシスコの家まで往復一人旅です。

少女の実力に驚きもしましたし、圧倒もされました。「ヘエー。これが華僑の人たちの普通日常なの?」

 東京新橋駅近くに第一ホテルと言う庶民派ホテルがありました。仕事でよく訪れる処です。

私は仕事というより新橋から有楽町までのガード下に連なる「ピンク喫茶」が目的でしたけれど・・・ その第一ホテルに顔を見せる友の一人は在日中国人の事務所に働いていましたが

時に彼は「雇い主の太っ腹ぶり」に感歎のため息なのです。

俺の付き合っている連中はどうゆう訳か 経済階級人間(変な日本語)には概してソッポを向かれ 就職もママならない連中でした。 そんな連中の救い主は若いアメリカ人起業家とか在日中国実業家だったのです。彼らの要求は肩書でも経歴でもない。今ある実際のbusinessが出来るかどうかでした。。我々には有難かったものです。

日本人を含めてアジア人のうちのチンピラ紳士は敬遠ものでしょう。

我々日本人は子供の頃からchina文明どっぷりだったかも知れません。私も中学の二年の

時にはノートに侏儒の言葉なんか書き写して得意になっていたことを思い出します。友達と 今もって交流を続けている老友ですが 神田に出かけ 宇野哲人の漢和辞書をなんの手違いか金十円で入手 己の古書漁りを自慢したものです。 そのくせ勉強そのものはお粗末の限り學校さぼって渋谷駅前にウロチョロしていた記憶が強いだけです。

それでも漢字が続いた文章を書いたり漢字だけの書物を持って見せびらかしているのが俺には最高に格好良いことに思われたのです。それは教科書も碌に買わず学業不良素行不良レッテルに対するコンプレックスもあったのですが・・・。私はこの時期の自分自身を応援しています。

私自身の純真な少年らしき<憧れと尊敬>は三国志と共に高揚を続け やがて太平記読みになりたい夢となります。時に心に触れた「天網恢恢疎にして漏らさず 時にコウセン(私自身こと)無きにしもあらず」は俺の気概でもあったのです。

ところが世の中変わりました。今日では漢民族(心根)イコール覇権主義みたいな印象です。この判断が正しいのか、俺の失恋か それとも仮面を剥いで正体を見せつけられたのか? 

全ては私めの考察不足ということですか? 要するに俺頭悪いにゃ・・・

今の地球を見せつけられている児童少年少女たちは迷惑を通り越していますよ・・・

彼等に対する我々の罪は大きと思いますが・・・。。

               おわり

今昔#41 Jikowsつれづれ語り 「老夫婦と20万円」2600字  中津さんそん

 

 昔々と言っても昭和の中頃のことですから差して遠いことではありません。大坂の大和川字  右岸の市営住宅団地に横田夫婦は住んでおります。男は72歳 色黒で肉付きの悪い貧相な年寄りす。女は77歳 ポッチャリ色白のいまだに背筋をピンとさせた上品なご婦人です。まるでフアッション・モデルみたいと云いたいのですが 若い時には芸能界にも顔を出していたこともある 地元身の美人でした。

 この夫婦が”連れ“で歩いているのを見るのは どうも調子が悪いのです。余計なお節介ですが あまりにも【不釣り合い】なのです。美女と野獣の方がまだましだ。男の方は<劣等感〉に苛なまれるだろうし女の方とて<恥ずかしい>なんて思わないのだろうか?

 横田老人は若い頃はかなり評判の悪い男であった。この土地周辺をウロウロしていましたが仕事は不定 要するに警察とは親しい半ゴロみたいなやつでした

結婚の経緯は後で話しますが この夫婦は未だに「アツアツ」のカップルなのです。が滅茶苦茶の貧乏なのです。それでも二人で元気にリヤカー引いて空き缶廃品回収をやっています。

福祉で生活保護を受けた方がずっと生活は楽なのに」と周囲は心配するのですが 「生活保護の話」は この夫婦の前では御法度です。

 夫婦が20万円拾ったのです。廃棄回収した古雑誌に挟まっていたのですが ふだんよくある千円や一万円札でしたら遠慮なく猫ババするところですが20万円は警察に届けたのです。

 この程度の金額の拾いものは大体一年経ったら拾い主のものです

老夫婦は男のたっての願いから 娘たちを箱根に連れて行くことにしました。

此れには深くもないけどイワク因縁があります。

 一人娘も同じ団地に住んでおります。 隣町の鉄工所に働く夫と小3・小6の娘二人の四人家族で六畳二間にトイレ炊事場等々のおなじまどりです。

 この娘は 堺のデパートのトイレに捨てられているのを偶々夫婦が拾い 実子として育ててきたものです。

 この娘の結婚の時 横田は「娘の結婚の時には式の前に家族旅行をするもんだ」とあまり利口ではない男にしては エラク箱根富士屋ホテル固執したのでした

横田夫人は夫の普段とは違った気色ばった口ぶりに怪訝な思いをしたのですが 後に理由を知って「やはり夫は・・・」と複雑な思いをしたものです。

理由は横田夫婦が結婚する前の時間になります。 横田夫人の実家は土地でも有名な資産家であり父親は市会議員でもありました。夫人の姉が旧家の御曹司との結婚が決まった時に父の発案で家族旅行を箱根にし富士屋ホテルに泊まったのでした。夫は何処で知ったのかその出来事を心に留めているらしいのです。夫人はそんなことを話した記憶はないのでしたが。。

 ですが 家族旅行は実現しませんでした。横田の例の<酒とギャンブル>でスッカラカン、結果はフアミレスでお別れ食事会となったのです。横田老人には この時の後悔と申し訳無さ

が消えていないのです。遅らばせながら名誉挽回と行きたい夫の稚気に近い愛情に 横田夫人は大賛成をしたのです

 ところが一人娘は 両親の腹案に反対です。実は母の横田夫人は心臓が何時破裂しても怪しくない業病の持ち主なのです。横田夫婦は結婚以来50年「あんな病気は忘れた」と言って真面な医療診断を受けておりません。事実今までは神様のお蔭か無病息災を続けてきたのですが 

どうも2-3年調子が芳しくないのです

 横田爺さんも心配しないわけではないのですが 夫人に「私は大丈夫」なんてニッコリされると、愛妻べったりのじいさんは全て大丈夫と信じてしまうのでした。

 旅行がダメなら孫たちの奨学資金にと言うと「子供の金の事なら 親は飯食わんでも払うワ」

と逆にサカネジを食らってしまいます。

 困った老人は孫たち二人に決めさせると アッサリ「新幹線に乗ってディズニーランド」に即決です。

 横田老婦人と一人娘の母娘の意地っ張りぶりは相当なものです。事情を知る周囲はそれが嬉しいし応援もしたくなるのです。

事情というのはこうゆうことです。横田夫妻の結婚のことです。もう かれこれ30数年前のことに為りますか? 前にも話しましたが 横田夫人の実家は古い資産家で 主人は代々続く庄屋であり市会議員なのでした。その次女に 即ち今の横田老婦人ですが としごろ適齢期となりまして知人縁者から多くの縁談が持ち上がっておりました。勿論本人を知る幼馴染学友遊び友達からの熱烈なラブコールもありました。

 所が決まったのは 名前も面体もロクに知られていない男、 そう 現在の横田さんが選ばれたのでした。 それは世間を驚愕させ納得させるものだったのです。それは前々から噂になっていたことですが「あの娘は業病の持ち主で子を産めない身体じゃ」と言う面白半分のヤツカミでしたが 次女本人が機会をとらえては「私は可哀そうな石女【産ず女】」と公言し始めたのです。

 これで<婿候補者>は一人もいなくなってしまったのでした。平成や令和の時代には信じられない本当の話です。それだけ子孫を繋いでいくことは大事だったのです。

結局 残ったのは横田青年唯一人となっていたのです。横田青年だとて この富豪の次女とは地元の小学校が同じという程度の仲でしかありません 遠くから目にした時には 【いい女じゃワイ」とは感じても【住むところが違う女】ということを知っております。元々周囲の曲がり根性共が冗談交じりにお膳立てをした芝居が妙な結末となってしまい 最後には 父親と次女に泣きつかれてしまい【変な御結婚】が出来上がってしまったのでした。御令嬢はカスを攫ませられ 若者は貧乏くじを引いた と暫くは今も続いておりますが土地も笑い話になっていたものです。

さて 爺さん婆さん 娘家族四人の一族6人の東京行を一週後に控えて大事件です。横田夫人が突然卒倒 救急車で運ばれましたが翌日未明には死亡が確認されました。

言葉もありません。

あんなに無病息災 夫婦になってから40年近く病院知らずの婦人です。

横田さん自身 妻の業病は知っていた筈です。しかし油断だったのでしょうか? 神様はあまりにも理不尽すぎます・

葬式は団地の集会所で済ませました。20万園の葬式何て簡略なものです。お坊さんのお経何て妙に短かった.棺の隣で横田老人がそれしか知らない般若心経を繰り返し繰り返し上げているのが印象的でした。焼き場までは 娘の強い希望で あのお城みたいに金ぴかの霊きゅう車で行きました。

おわり

PS;当話は (19・12・5ブログ)孫たちへの遺書#3「二十万円拾った話」をrewriteしました。

今は昔#40 Jikowsつれづれ 「あいつ臭いで・・・シッシ―」 中津さんそん

 

 きのう三週間ぶりに風呂に入った。徒歩一分の銭湯です。早朝6時からやっている朝風呂だから贅沢なものです。

風呂となっては 私にはトラウマもいいところ。83歳のいまだに「風呂は勘弁してくれ」は変わらない。74・5年は昔になるが 東北地方のある里山郷村に居候する我が家族は 風呂となると月に何度も入れるものではない。 いわゆる【もらい湯】であるから 「ありがとうございます ありがとうございます」と頭を下げて御ショウバンに与るわけです。嫌だったな――あの時は。。「ボウズ!(中で)小便すんなよーーー」

 当時私は夏には風呂には入らなかった。川や沼での水浴びで満足していたのです。十分に臭くて痩せこけた少年は 上野駅の地下道だけではなく 神戸にも仙台駅の周辺にも多く見られたものです。

 後年箱根温泉郷で正面玄関の下足番をやっていた時のことですが 初老の極々平凡なご婦人客です。「いらっしゃいませ。ドウゾ御履き物を御預かりいたします」と夫人のローヒールを取り上げたとき 俺はガキの癖に妙な色気を感じたものです。

何故って言って その靴からは あの足の臭気でなく秋の涼しい香りがして来るのです。何も知らない青年は本当にビックリこいた経験でした。コンナ御洒落の出来る女御さんは尊敬しますよ。

 自他ともに認める「不潔」な少年でしたが 50年ぶりの同窓クラス会で 「ああ お前は臭かったナ・・・」なんて思い出話をされると 己の家の格好悪さを思い知らされてやりきれない。 後年 大阪西成でのこと 酒友の某男は失禁がひどく呑むと必ずやってしまう。あまりにも頻々なので誤魔化し清掃も間に合わない。本人だけでなく部屋自体からも異様な臭気が立ち上っているのです。これは正直言って 常人の忍耐限度をかなりオーバーしています。

心無い人間が「こりゃ酷い エズクわ・・・」と顔を顰めると 何とも言えない悲しそうな顔をするのです。同年の彼ももう居ない。

 此れも昔々の話となります。相手は5歳ぐらいのヨーロッパの少女でした。 俺は学校に行かない名前だけの学生、実は日雇い労働者であった。

この少女は妙に小生に慣れ親しんでくる。変な話や 言葉も通じない外国の子供が…

俺は俺で こんな関係を内心自慢していたかもしれない。【この子は 俺が危険でないこと】を見抜いてくれた。つまり証明してくれたのだ。と喜んでいたのです。】

 後に母親が 笑みを浮かべながら smellとかperfumeとか互いに外国語を懸命に操って説明したものでした。

 昨今は 人間関係に【匂い】が無くなりました.徐臭徐臭と騒いだり 塗りたくったり噴霧器したり相手が理解しにくくなりました。無味無臭は生きてるとはいわないよね。。我々老人も加齢臭となりインチキがしやすくなりました。 老臭の方が老醜に通じて味があるのですけれど・・・

                続きます

今は昔#39 「Jikows新春つれづれ・・・」 中津さんそん

 

 もともと良い人生を送っていない所為か 老いても然したる思い出みたいなものは浮かんで来ない なのに 突然 昔々に忘却の彼方に消えてしまった筈のワン・シーンが頭を出すことがあります。まあ 老人の頭なんて調子の悪いパソコンみたいなもの 突然変異は日常茶飯事の出来事です。

 其の突飛な出来事とは「そうそう あの頃俺は我が闘争(アドルフ。ヒトラー)を読んだっけ・・・」。二十歳前後であった。八十三歳の今とは何の脈絡もない話です。何故こんなことを心動かすかというと【俺も案外真面目青年だったんだな!】と自分自身に感心したからです

 世間には「マトモな奴」とは思われていない自分ですが 世間には相手にされていない「我が闘争なんかを読んでいる青年はワリカシ真面目な奴だと俺は思いたい。世間が要求してないことに【yes/no】は別として興味を示している人間を私は好みます

 「我が闘争」に感動したわけではありません。ただ率直に直感しました。 もし あの当時私が少年であったならば こんな本ばかり読んでいたんでは 間違いなく熱烈な信奉者になっていたでしょう。しかも超純粋な・・・。 多様化どころか選択の余地もない社会体制とは本当に怖いコッチャ

 私は日ならずして 「大菩薩峠中里介山)」に没入していましたが・・・その後40年 白骨温泉は仕事探しに尋ねたことがありましたが ウーン 語るのは止めときましょう。

 「我が闘争」を持ち出したのは この世の中【理不尽】が多すぎますわ 私の神経では 政治なのか経済なのか感情なのか原因は分かりませんが 【子供を殺してしまう所業】です。やり切れんだけです。

 自分の生まれた時代や国を 運が良かったの悪かったのと詮議していても始まらんワ。

例え己の弱さを愚痴ろうとも 地から湧いてきた環境の中を俺は生きて行きます。それ位の自己責任をお粗末ですが持っている老人に落ち着きましたので・・・ 世の中良くしたもので 「一人では無理」でも そんな場合必ず 近くに助けてくれる人がいるものです。 一方の親 キョウダイ 親戚縁者 友だち お人よしの老人 ベンチに偶々座り合わせた赤の他人etc 此れでいいのです。

俺も人の助けになる人間になりたい、なんて思ったりしているガキでした。そして今老人です。。

 僕は教室の前に出て ナンヤカンヤお話しをするのが得意だった。もう70年以上も昔のことです。 桃太郎に適当に作り話を混ぜたりするのは最高に面白いものです。

 俺は文章を書くのが苦手じゃ  だからであろうか? しゃべくりの方が気が楽である。俺と同じくらいの児童少年少女に俺のお話を真面目腐って話すのが、ガキの頃からの誰にも秘密にしている夢でした。83歳の老人には、もはや秘密はいらない。

あと何年残ってる? 生きてる限りは児童少年少女物語を夢見てやるさ-------ヨシヨシ。。

                続きます

今は昔#38 「Jikows正月つれづれ・・・」  中津さんそん

 

 友は年賀状に曰く「登山歴66年に幕を引いた」とのこと。

友と始めて一緒したのは 確か高2のとき丹沢塔が岳であったと思います。。彼は岳人の人生を選び 小生は人間関係“蜜”の人生を選びました。「西田幾多郎善の研究」の方に沈んで行ったのです。

お互い肉体の軋みには泣かされる年齢となりました。。友は 秘湯の酒、机上の登山を楽しみ、時には高尾山に足を運ぶそうです。 私もネット登山と机上の酒を一人楽しんでおります。

昨今のコロナ騒動に出くわしていると どうも 人間関係の人生より山岳人生の方が

分がいいように思えたりもします。

 私とて好き好んで人間関係蜜の人生を選んだ訳ではありません。少年時代には それこそ能力と金銭的余裕が許されるならば 富士山みたいな寂しい無人天文台か測候所で一人星を相手に生きるのも良い と真剣に憧れたこともあったものです。

 人間世界は何処に行っても「私よりも上にあるのか、上に立ちたいのか?】そんな人が多くて 俺のように弱い人間はシンドイ思いをいたします。

人間世界は やはり弱い人間は分が悪いものです。

Holocaustみたいなものがいかなる原因で起きたのか? 俺の頭では理解できません。理不尽と言うのか不条理と言うのか 人間世界にはgenocideがゴマンと起きているではありませんか・・・ 

やられる者は 何時も弱い奴です。上にいる人間は強い人たちです。やり切れません。

 京都のアニメ某事件、池袋の母子交通事故死 一家五人惨殺事件etc やり切れません

やった人間は あれ指導者なのですか?  皆さん 頭のいい人たちばかりですから 凄い選民意識の所有者なのでしょう。 羨ましい頭脳です。 

私には 皆おなじpsychopathにしか思えませんけど

人間は誰でも例外なく【精神病の体質保持者】である筈です。風邪引き易い体質と同じようなもんじゃ  親御さんの育児責任、教育責任。何よりも本人の自己責任でしょう。  

我々は周囲を100%近くも選別して生きていくことは出来ません。 とくに弱い人間にとっては神に与えられた環境は甘受するしかないのです

所がです。甘受ばかりしていたら短い人生とんでもないことに為ってしまいます。精々「あいつお人よしだから・・・な」 ぐらいの裏口叩かれて消されて行くのが落ちでしょう。

俺は この精神病のニセ者というか精神病を演技する奴等が許せないのです。10歳15歳二十歳以前に自己責任をとれる人間に俺はなりたい。 児童少年少女時代です。。 

(柄にもない能書きたれちゃって疲れました。やはり 正月気分ですか)

               つづく