今は昔#37 「Jikows今つれづれ・・・」 中津さんそん

 年を取るともの覚えが悪くなるというけど 俺の体はいったいどうなってんだ!。老体の調子が悪くなる程度の 並の悪化ではない。孫娘に教えられたドライブを10分経ったら もう思い出せない。これが一回だけのミスではない。三回五回と同じことを繰り返すと さすがに孫娘も顔をしかめる。 彼女を怒らせてはマズイと懸命になると全然逆方向になってしまう

「エイ・・」。疲れるわ パソコンなんて止めや 。

老耄の己と毎日付き合っていると 「人間の一生なんて呆気ないもんだぜ」とつくづくと教えられます。葬式に出会っても「悲しい」気分になることがない 「ご苦労さま」と合掌すると。。

向うも「待っている 手土産を忘れるな!」とニヤリ・・・

 私めも 本年は己の<青春放浪記みたいなもん>を書きあげ お粗末ながら人生の一端を総括することが出来ました。人間一度はやるべき仕事ではあるとは耳にしていましたが いやー その辛度さには正直言ってマイリマシタ。

 しかし 其の後は日々是好日 肩の痛みも無くなり『なんの急ぎも仕事もありません」。つまり眼前の欲が無いのです。目の前に人参がぶら下っていないのです。これじゃレースに参加は出来ません。中山も阪神もお呼びではない。

 弱虫のダメ人間である俺様にも 人並みに覚悟みたいなものが生まれたのかな? 目出度いこっちゃ・・・

                    つづく 

 

今昔#36  「Jikowつれづれ語り(捨猫物語)」5800字  中津さんそん

つれづれ 現在私は大阪西成に長くリバークを続けておりますが 全国どこに行っても ニュースとかワイドショウの時間になると 渋谷駅前のスクランブル交差点がテレビには映し出されます。駅前はガキの頃の俺の<ヨタっていた処です。東横百貨店は東急となって存在しておりますが NHKは未だ田村町の方にあった頃です。渋谷駅前の映像を見せつけられると 私は即く少年時代に戻されます。。お蔭で時空の観念が<万年少年>の有様です。。いいことか悪いことか さてどんなものでしよう。まあ少年老い易く・・・を地で行っているだけの話でしょうか
 ハチ公の銅像は今とは違い駅出入れ口の正面に鎮座していました。頭に残るのは雨の夕方ハチ公の足元に捨てられていた子猫です。
「捨猫物語」は「jikow日瀝」に書き換え続けて来たものです。本日のものは 去年暮れに(2019・11・22)ブログしたものに手をいれました。
「捨猫物語」(5800
 仲良し三人組が下校途中鎮守の森で ダンボールに入れられた捨猫を見つけました。子猫は赤ん坊ではありません。既に猫らしい毛並みです。目の方も大丈夫でしょう。
 飼い主が「捨てるか育てるか?」と躊躇している内に大きくなってしまい 「ヨシこれなら大丈夫、自分で食っていける」と安心して捨てちまったのであろうか?

 『あら 可愛い――』三人は歓声を上げて駆け寄りました。
「お腹空いてるのと違う? すっごく泣いてんじゃーーー」
四人は 可愛いけどサテどうしたらいいものか?。 と捨猫を囲みます。
相手は「捨てられている仔猫」です。迂闊に手を出せないことぐらい皆んなは
知っているのです。
すると突然 英子が「私が育てる」と取り上げると懐に抱き込んでしまったのです。
残りの二人は本当にビックリしてしまいました。「誰も横取りなんてしないけど そんな捨猫を拾って帰ったらどんなことに為るのか 私知らんよ・・・」
「英子ってバッカじゃない。学校は出来るくせに・・・」

 家に走りながら 英子は動機が激しくなるばかりでした。
《捨猫を拾って帰ったらまずいことに為ることぐらい私だって知っています。》 だけど これはリベンジなのです。母親に対するリベンジなのです。そんな簡単なことじゃないんです。
物語は去年の夏のことです。
英子は 今日と同じように捨猫を拾って帰りました。
事情を察した母の声は最初から尖っておりました。「どうすんの? 此処では飼えませんよ
マンシヨンはペット禁止,知ってるでしょ 《こんなことも解らんのかしら、この娘はー、情けない》 母はいっぺんに機嫌悪くなりました。
「戻してらっしゃい」
有無を言わせぬ命令です。「戻すなんて 出来る筈ないでしょ…」英子は悲しくて泣きだしてしまいました。
 そうこうする内 父と兄が帰って来ました。
英子が泣き止まないので家族は困ってしまいました。それで その夜だけは「なんとなく」家に置くことに為ったのでした。 お母さんは 英子ともお父さんとも目も合わそうとしないし口も利きません。母は本当に怒ってしまってダンマリですから、父も兄も黙ってしまいました。
英子は小猫を抱いて一緒に寝ました。柔らかい温もりに 何時もよりグッスリ眠ったのでした。
ですが翌朝目が覚めると子猫がおりません。「あれ…?」。お母さんはアッチ向いてホイ。全然知らんぷりです。 母が夜中に捨ててしまったに違いありません。
英子はパニックです。パジャマでマンションを飛び出していました。早朝で人通りがないとはいっても パジャマ姿の少女が「チビ チビ」と駆けずりまわっている姿は異様です。
恥ずかしいなんて言っておれない。
普段は暗くて怖い森の中にも入ってみましたが無駄でした。
母の卑怯が許せない。英子は泣くに泣けない。布団に潜り込んでガタガタ震えています。
お母さんが出てきて 朝露に濡れた娘を心配します。
「ご飯いらない」「学校行かない」 後は何を言われても返事もしない。
結局 英子は熱を出し一週間も学校を休む羽目となったのでした。
リベンジとは この事件の事なのです。
 ところがです。今日の母は一年前の母とはまるで違います。キッチンから振り向いた顔は声からして優しいの・・・「あら 可愛い子猫ちゃん どうしたの?」 フン 捨猫だって言う事解っているくせに・・・ 『お母さんに抱かせて・・・』と近寄ってくると子猫の頭をナデナデするではないか。そして 何処となく抵抗気味の英子の腕から子猫を取ると「オーよしよし」と赤ちゃん抱っこをして上下左右に揺らすのです。
<母は一年前の事件を忘れてはいないのだ。気にしてくれている》娘はハッキリりかいしました。

 実は 母にも同じような経験があったのです。
30年も昔になります。この英子と似たような年頃のことでした。
子猫を拾ったのは 渋谷駅ハチ公銅像の足元でした 終戦後二年の渋谷駅前は舗装のされていない場末の広場に過ぎません。 雨ともなると一面の<ぬかるみ>と化します。正面の交差点の横断には往生したものです。
駅舎と同居した東横百貨店が渋谷の象徴です。隣の新宿と比較するなら静かな田園街と言う所でしょう。 ですが 玉川本線、東横線のターミナルでもあるので結構人の流れは多いのです。
正面には木造二階の大林百貨店が親分面をして構えています。当時としては珍しいコーヒーの香りを漂わせています。 そこは 瀟洒な小店舗やこじんまりした事務所が雑居するユニークなビルです。
駅前広場の昼間は キリスト教の布教共産党の宣言右翼の街頭宣伝と 賑やかなものですが夜ともなると子猫が捨てられるような寂しい広場でもあります。
道を横切った向かいの露店みたいな書店に人人が群がっている光景が並の繁華街と違う所でしょうか。人間は活字に飢得ていました。中二の私も大盛堂でわら版紙の数学参考書を買った時 床が地面であったことを覚えております。
広場から恵比寿代官山鉢山方面に向かえば まだ防空壕生活の人も見られた時代です。
英子の母親も その界隈の少女だったのです。
 雨の日でした。ハチ公下にずぶ濡れに泣く捨猫を見つけました。 可哀そうで放っておけるはずないでしょう。当然拾って帰りました。
 家族の大人たちは困りました  
少女の心を無にはできません。 と言っても 人間でさえ碌に食えない時代です。
親は泣きたい気持ちで説得しますが。娘は納得しません。無理な話ですが親は譲歩せざるを得ません。「家に置いてもいいけど 食事の面倒はあなたが自分で見るのですよ」
少女は狂喜しました。
親としては 少女が現実の無理を理解せざるを得なくなるのを待つことにしたのです。時間に解決を委ねたのでした。
 少女は自分の食事を削って頑張りました。ですが 此れはしょせん無理な話なのです。それこそパン一枚で命のやり取りがあっても不思議でない時代です。
 少女の近所にコソ泥が頻発しました。犯人は誰の目にも明らかです 泥棒猫の存在です。人間だけが腹減るもんじゃありません。猫だって腹ペコです。ましてや成長期の子猫です。食べたい盛りです。
少女は 泥棒という言葉にショックを受けました。「たとえ餓しても盗みはせず」。日本人である少女は生れながらに持っている人の道でした。飼い猫ならば 当然人間と同じなのです。少女は泣きながら子猫を叩き続けたのです。見たこともない妹の狂気を兄貴が停めなければ 本当にどんな結果になった事やら・・・
 子猫は少女の心を知ってか これ以後は 泥棒の真似は一切しなくなりました。
ところが子猫は目に見えて滅茶苦茶に痩せていきます。 憔悴しきった子猫を見て 少女は何とかしたいけど余裕がありません。
「どうする?どうする?」と頭を抱えているうちに 子猫は忽然と消えてしまったのです。
少女は悔やみました。
私たち一家の甲斐性なしを見限っての家出なら納得できます。 しかし 彼は未だ鼠一匹満足に捕ることも出来ない幼児です。家出して自立したとて どうなるの?
「猫は死ぬときには人間にその姿を見せない」といいます。
少女はスッカリ落ち込んでしまいました。『私が馬鹿だった。可哀そうだなんて安請け合いしても 満足に食べさせることも出来なかった力なし何よ。子供が出来る事じゃない
私が余計なことをしなければ チビは泥棒でも何でもやって逞しく生きていけたのに・・・
お母さんには、こんなやりきれない過去があったのです。

 英子の家族に取って子猫は招かざる客です.無視も出来ない と言って大事に飼うこ゚とも出来ない。困ったことに為りました。特にお母さんにとっては 去年はとんだヘマをやってしまったので 今度は慎重に行きます。心は 母娘関係の正念場ですから・・・
 夕食前から両親は何やら小声で話こんでいます。困り抜いている様子です。リベンジだなんて格好つけていたけど 少しやり過ぎたかなと英子はチョッピリ後悔もし始めていました
 とにかく家族会議となりました。会議二時間の結論は『一週間は家に置こう、その間に何とかするさ』
 ペット厳禁のマンションですが そこは管理人さん理解があります。こんな話には慣れているらしく「OK OK 大丈夫」そして付け加えるのでした「引き取り手が無かったら いいとこ紹介しますから」
 其の一週間 英子の家族は戦争でした。
父は会社関係を総当たり 母は仲の悪い横浜の親戚にまで電話をするし 兄は友達だけでなく部活の先輩コーチにまで相談するし 英子本人は恥ずかしくも街頭で<動物愛護の精神>を
ブチまくったのですが 結果は全てダメでした。
「人気無いんだなあ」 貰い手が無ければ 管理人さんが言ってたトコに相談するしかないか・・・」
 
応対に出たのは愛嬌のいい中年紳士でした。NPO何某の名刺を出す.事務所は病院みたいに清潔で、職員は皆さん白衣です。信頼感いっぱいの雰囲気です。 ですけど 何故か母子には応対の紳士の細い目が気になって仕方がありません。
思いの外に高額の経費を請求され、<たかが猫ちゃんの世話に…>と母は一瞬苦笑します…
「この子猫ちゃん そんなにセレブじゃないんだけれど・・・」
【まあそういわんでください】と卑しい笑みを浮かべ 怪訝顔の母娘に紳士は当然のように説明をするのでした。「ご存知でしょうけれど・・・」。母子は初めて耳にすることでした。
世の中には 犬猫のほかにもサマザマなペットがおりますが 可愛がる人間の方には色々事情が起こります。 引っ越しがあったり 餌費用は掛かるし 特別な事情が無くても<嫌気が 刺す>こともあります。
 猫と人間の関係も 「サヨナラだけが人生よ」になってしまうことが多いのですわ。その時はどうします? 捨てるか 保健所に持っていくしかありません。役所では危険な奴と一緒に処分します。殺処分です。
 母娘葉こんなこと知りませんでした。紳士は続けます
「ペットを自分の手で殺しにつれていくのは チョットねぇ 嫌でしょ?」と 母娘を覗き込む  「そこで我々が代行する 都いうことです。まあ 世のため人のために汚れ仕事を頑張っているということです」
母と娘は現実に圧倒されてしまいました。
瞬間真っ青になった二人は 気が付いた時には子猫を強く抱いて家に逃げ帰っておりました。
「ああ 怖かった」互いの顔を見ると引きつっています。思いは同じです。長い沈黙の後二人は同時に叫びました。
「そっちがそっちなら こっちはこっちで行くぞ・・・」
マンションは猫禁止です。新しい解決策を考えなければならない。いずれにしろもう人間には頼めない。神さまも要らない。
 
 その夜の家族会議は白熱 超盛り上がりました。そして出した結論は全員一致『子猫は森に返す』でした。時計は0時を過ぎていました。四時間も話しあった家族会議など初めての経験です。
 会議の模様をチョットだけ書いておきます。
母と妹の報告を聞いて 兄が捨猫の殺処分を猛烈に怒り始めたのです。兄貴は猫問題に関しては どちらかと言えば無関心に近い態度だったのに 殺処分という言葉を聞いて豹変した怒りは日頃の兄貴からは考えられないことでした。そして「いかに人間は思い上がった殺人者であるか」と 延々2時間も独演が続いたのでした。「狩猟と殺処分は違う」から始まってコマゴマと歴史的出来事を語り 最後はアンネ・フランクの殺処分を怒り泣くのでした。
英子は改めて兄の優しさに感動したのですが 何よりのことは 兄貴のスピーチの間 父と母がそれこそ微動だにせず息子の話を聞いていることでした。お母さんは 息子が一段落と座に戻った時には 「チョット休憩しましょうか…」と言って珈琲とケーキを出してくれました。
そのあと最後には 「ヤッパリ人間は動物と一緒に自然生活が夢だな・・・」
なんてことに為ると 父は「高尾山のふもと・・・」と言って「仕事が近いから・・・」と笑わせる。お母さんはお母さんで「八ヶ岳か蓼科よ」って譲らない。 家で一番のロマンチストは父と母である。
これが 「森に返す」の真相です。
 翌翌日の早朝五時 まだ暗いうちに 家族はそろって 子猫を森まで送りました。 自分たちだけで彼の新しい門出を応援する気持ちがあります。それより うちで飼ってやれない詫びの気持ちが強い。
 幸い この森は ねずみ イモムシ 蛇をはじめ食糧には不自由しない 近所にはキャッツ・フ-ドをばらまく暇人もいない。 
 それでも 子供のうちは自給自足も大変でしょうと 英子母娘は毎朝 なにがしかの差し入れをしてはいましたが・・・。

 一年を過ぎた頃には 子猫は足腰も逞しくなり 立派な野良猫に成長しています
名前を呼んでも 三度のうち二度は顔を出さなくなりました。
「「もう私たちは お呼びは無くなったのね」
母娘は チョッピリ寂しいけれど 本音は自慢タラタラなのです。「やったぜ・・・」
と あのNPOのおっさんにだけでなく 世間様に言ってやりたい。「子育てとは こういうものじゃ」
雨が続いた晴れ間に 好物のイワシの缶詰を開けて持って行った。
「雨だったから 今日は居ないかも?」と期待していなかったのですが なんと 
先に来て待っているではありませんか。  
しかも すました顔で「早くしろ!」と言わんばかりに「ニヤゴ-」と威嚇するのです。。 
全く勝手なんだから、何様のつもりや?
ですが 腹も立たない。 それもいい。
必要な時になったら 顔を見せてください
                        おわり





関連記事
• 2020-12-04

 

 

 

 

今は昔 【補遺】  中津さんそん

 

 2020年4月18日に ブログ「今は昔」を#1「西田幾多郎 善の研究」からスタートさせました。 書けたことは 実際の事件の所謂(万分の一)にも当たらないものでしょう。。青春の旅日誌みたいな想いであり私としては【自分探し・青春の総括】みたいな気負いもあったのです。

 この作業が 何とまる八か月もかかっているのです。私の老体はクタクタにまいってしまった。。酒の量は増えるし体調は崩れるし 散々なおもいをさせられました。

「俺の人生も大した事無かったナ・・・」と 老人は概して弱気になるものですが ブログ「今は昔」の作業中は「お前もお粗末な奴だがケッコウ真剣な顔してたじゃないか?」とも言ってもやりたくなったものです。勿論 酩酊白日夢の中でしたが。

 私の現在のザインは 酒と山と児童少年少女物語にカタログされるかも知れません。。

酒には助けられました。勿論 マイナスは嫌になるほど無数にありましたが そんなの大したことない。第一こいつは嘘をつかない。飲めば飲むほど酔います。可愛い奴っちゃ。もっとも今は頻尿ストップが目的となり色気もあったもんじゃないけれど。。

 山は不可能への憧憬でしょう。今日この頃は ウインドウのマッターホルンを直視 ゴードンジンを正眼に構える程度の単独行ですが・・・。

 「児童少年少女物語」は ジュニア・ノベルとでも言った方が適当なのでしょうか。 これには思い入れがあるのです

いつの間にか知らぬ間に「老人になってしまった」男の 怒りです。 痴呆になっても忘れないし、死んでも消えまい。私は憎しみ・怒り・軽蔑を持つ平均的人間です。老年にしてやっと私にも【思いやり】みたいなものが生まれましたが。

(私のきわめて個人的な見解となります)。

世には統合失調症という病気があります。一昔前までは【分裂症】と称した精神病です。

特別難病ではありません。鼻病眼病がん病と同じく体質遺伝の代物でしょう。この精神病が厄介極まりない。だいたい 人間で精神病の体質ゼロの人間なんてありえない。私の戦いはこの精神病野郎です。欺瞞野郎というべき病です。自分の病いをいいことにして勝手気ままに人間やっている奴らである。

幼児時代は 親の子育てが子供の精神の発病を防いでくれます。成人となれば 己自身が<自分不安定>に悩み自分で学習を始めます。現在では心療内科医院まである環境です。問題はその中間に挟まれた7~8年の時間ではないでしょうか 学齢を見れば 小学高学年から中学高校といったところでしょう。この7・8年で人間は略決まります。精神病などに成る筈ないしなったら先祖代々親も自分も大恥です。

 老生が浅才浅学ながら児童少年少女物語に思いを馳せているばか起動はこれです。理由はここにあります。。

精神疾患障碍者手帳所持者は一様に<頭脳優良の上>を行く人たちが多い。曰く「裁判官と精神科医ほど騙しやすいボンボンはいない・・・」そうですから。

 かれらニセ者をピックアップする戦士でありたい。。例え相手が海外であれ職場であれcommunityであれ はて又一族血族の中であってもです。【ニセ者は御免】なのです。私は生涯一戦士であります。隠居生活が許される身分ではありません。

             「今は昔」青春の放浪道中記は終了します。

PS;昨年ブログしました「孫への遺書 山と酒と児童少年少女物語」のimprove

 からスタートしたいと思います。

。題して 「今は昔 粗末なものですが置きみやげ」 兼好祖師を*-+0*?して Jikowsつれづれ記なんてのも・・・

                 続けます

      

今は昔#35 「人生意気に感んず・・・」 中津さんそん

 

(はじめに)

生きてる限り 人間は『自分を求めて』旅を続けるでしょう。

なのに 私はブログ「今は昔」を#35をもってピリウドを打ちます。人生半ばにしては終了しているのですか? いや違います。82歳の若者ですが、現在は旅の途上にあります。。

 実はブログ「今は昔」を書くことに疲れただけの話なのです。自分自身へのメンタル効果は大変なものでしたが 心臓への負担が想像以上のものがあったのです。時には フイクションも交え「我が人生は緑豊かなものであった」と思いたい欲望もありますから、その気苦労たるや大変なものです。

 

(本文)

わたくしの青春旅日記結論と言うことに為るのでしょうかーーーーーーーーーー

人間海で生きていく限り、  【お金 】と【人間関係】には苦労させられます。私の旅も、 まさに金と人間でした。絶景もグルメも関係ない。

人間をやっていると時として無性に【無人島サバイバル】に憧れます。.しかしそのdesireは無理です。若者の旅なら 往々にして 無茶にしろ無理にしろ【笑い話】として酒の肴になりますが、サバイバルと現実の旅は違います。。 例えば 小生が何処かの山奥で独居生活でも始めたとします。すると土地所有者かレインジャーが即遣って来て「誰何?」されるだけの話です。長明・兼好諸氏連が自由に日本の山野に庵を設置出来た時代は 我々にとっては大昔の夢の又夢でしょう。旅は現実の中の自分探しです。自分には人海であれ樹海であれ独居静寂が可能であれば そこが自分の庵となります。、いや埴生の宿と言う所ですか。

(終わりに)

 82歳の現在までの40年弱、私には強く残る記憶はない。父の死までも希薄です。お粗末な親不孝者じゃ。

 腕で稼ぐ僅かの金人間関係の知恵を武器にかなり生意気であったと苦笑と言うか『可愛いやっちゃ』とその知恵遅れぶりを愛するものです。

 それにしても お粗末な脳味噌であったと先祖を恨むばかりです。。今さら詮無い話ですわ。

短い人生 やッと攫んだ僅かの金人間関係の知恵を持って、残る人生をやってやる元気が出ました。

 人間海せnには やり切れない理不尽が存在します。理不尽と言っても それは私の偏見かも知れません。彼らの方が正当なのかも知れません。何故って彼らの存在を神は許しているのですから。俺は自分の能力を棚に揚げ 人間海に平気な面をしてノサバッテいる理不尽にたいしては【紳士面】の真似は出来ない。俺は生涯生きている限り【理不尽との闘い】を続けます。戦場が海外であれ職場であれ、はて又内輪の血族の中にあってもです。それが青春の旅の結論です。この結論は老年になっても変わらない .戦いには 微力ながら現役の戦士として戦います。

 私は子供のころから お話をするのが好きでした。あの 教室の前に出て「昔々ある処に・・・・・・」とやるやつです。。、、世間様のお邪魔にならないように 「お話」を続けて行く肉体を青春の旅は作ってくれました。これだけは我が祖先の霊と先に死んでしまった友人たちに感謝するしかありません。。長い間求めてきた境地です。

               おわり。

今は昔#34 「最後は やっぱりお金のこと」 中津さんそん

(初めに)

。82歳の今 放浪時代を思ふ

若者を旅に駆り立てるのは青春の狂気でしょうか?それとも単なるロマン?

 ヨーロッパの貴族の子弟は 家庭教師付きで自家用馬車の大陸周遊の旅を時間をかけてやるそうですが 何とも優雅な話で学習にもいろいろありますわ・・・。船にしろ自動車にしろ無銭旅行にしろ節約バックパッカーにしろ 私の旅の範疇には入らないようです。

気分としては ヤクザ渡世の旅がらすとか土方渡世のノンポリ野郎と言う所でしょう。

一見‘気楽な御仁’に見えますが 365日「飯の心配」が付いて回ります。遊んでいるわけでは

ありません。

(本文)

何処に行っても〖人間の海〗です。川であれ湖であれ沼であれ森であれ 無人島みたいにはいきません。サバイバルには 先ずお金 お金を稼ぐには 人間と付き合うことが求められます。何処に行っても人間関係です。。私などが言うべきことではないかもしれませんが 芭蕉殿にしろ業平様にしろ羨ましい限りです。金の心配なんか必要のない人たちですから。平たく言えば「いい気なもんだぜ、。これが上級日本人ですか・・・?」

  世の中には俺のように人間関係の苦手な奴は案外と多いものです。人間関係が苦手と言っても別に人間嫌いではありません。ただ 理不尽な人間であっても我慢して続けなければならない絆が子供心にもやり切れなかっただけの話です。人間関係が苦手ならば 人間好きであっても人間社会から自然離れてしまうのが落ちでしょう。

今も昔も 昔は特に【出家】とか言う私には羨ましい習慣があったようです。  

御多分に漏れず 少年の私も「方丈記徒然草」を暗記させられたものです。高遠な先生方に憧れて 早速里山の洞窟に夜を明かしエライ目に遭った経験があります。

出家と家出を同じくして意気がるとこなんか やはり少年時代は楽しいもんです。

しかし出家にしても 社会的存立の是非を巡っての齟齬に過ぎないのでは?と言いますと己の浅学を蔑笑されるかも・・・。食うことには困らない【高尚な我儘】ですから 許される立場の人は勝手にしたらいいのです。

日本は何処に行っても これはと思う山や野ッ原には必ずと言っていい程【何某の庵址】が点在します。その数の多さから言っても ワビ寂び風雅を愛する上級日本人の存在が想像されます。

兼好法師に至っては、キャンピング・カーを乗り回して彼方此方に庵室を作り捲くった趣味人に思ったりするのは私の僻目でしょうか? 勿論 私は『イケずな奴 そうありたい人物』の教示を受けること大であったことを感謝しております。

(本文)

 長明-兼好両先達の例から見ても やはり「多少の金」を持っていないと 例え「世捨て人」になるとしても世の中ママなるものではないようです。

江戸の文人達は一様に「お金」のことを語っています。チャップリンも同様『僅かのお金』が必須であることを説いています。

(おわりに)

 日々怠学怠労働 何とか次回♯35で老生の放浪総括も肝心なことは端折りながらも一応は格好付けたつもりだ。「ヨウ頑張った 疲れたろう。休んでくれ」。肩の荷が下りました。自分を総括するなんてことは中々正直になれんもんですわ。

            おわり

今は昔#33 『自分探しは 今のところは一応終了』 中津さんそん

今は昔#33 『自分探しは終わった、最後まで自分らしく生きたい」

(はじめに)

 職場を辞め 無収入となりましたが 私の環境は何も変わりません。平常心そのものです。嫌な表現ですけど「まあ良しとするか」。

図書館に行き 浪速クラブで芝居を観て 飲み屋をハシゴするのはかわらない。

釜ヶ崎には足は向かない、ベースキャンプのアパートも変えた

(本文)

 良い年こいて まるで五月病みたいな気分でした。

仲間の紹介で調理師紹介所に登録 主に助っ人としてアッチコッチに一日三日一週間と小刻みに仕事をしていましたっけ。どうも落ち着かない。精神が不安定の時には酒でも飲んでいればよい。こんな具合に五年も十年も過ごしたら 人間はどうなってしまうんかね・・・?

 どんな生業をやったとて 人の一生なんて同じようなものじゃないの?

(あとがき)

 結局 人間はこうなるのが〖落ち〗でしょうか?  私はウルトラ真面目就職を選択しました。上場企業である大手スーパーの鮮魚部に入社したのです。

              おわり

 

 

 

 

今は昔#32 「私は変わった」のではない。「やっと抜けたのだ」 中津さんそん

(はじめに)

 【自分探し】に旅に出たはずです。.渋谷駅から東横線で横浜に向かったのも、つい先だってのことに思えます。いまさら六甲山で【ものを考える】時間を持てたとは・・・。自分でも何年振りかと頭を捻ります。エっ 私はもう青年ではない。四十のおっさんではないか・・。寒気がしました。何処をウロウロしてたんだ?

 兎にも角にも 自分でも解かるほど【思い上がった男】に成長していました。人間関係の少ないコミュニティーにありながら全く相手への思いやりがゼロに等しい人間です。。自分でも嫌になッちゃう程の自己虫です。知らなかったとはいえ エラク人を傷つけてしまった。「気が付かなかった」なんてのは弁解にならん

 しかし 人間が「嫌らしい動物」になると 本人自身は驚くほど楽チンになるものです。。ですから自分が【嫌われている】なんてことは全然苦になりません。なんせ 恥を知らない人間なのですから・・・。厚顔無恥とは言いえて妙ですワ。私は毎日が快活そのものでした。

(本文)。

 とは言っても 【嫌われているのを承知で生きていくのは それ相応の人間でないと出来るものではありません】。いや 住んでいる世界によっては 有能なヒーローなのかも知れませんけど、私には所詮無理でしょう。引いてしまいます。。どうやら 「太平記」の常識はドンキホーテーに近い。 かの書物ば 名も無き放浪僧たち、現代の取材ジャーナリストに似ますか、が騒乱の全国を酩酊取材したものです。芯は「優しいロマン」の寄せ集めでしょう・・・が。

 今ここで 正直言って六甲の職場は離れたくない。こんなチャンス滅多にあるもんじゃない。

ですが 「酒飲み」は気が短い、その決断は早い。第一に 俺は昔の俺ではない 何処に行っても【めし】は食える。やっと手にした自信です。大事にしたい。

(おわりに)

 私に帰る処はもう無いようです。最後には受け入れてもらおうと算段をしていた墓所もうない。

やはり西成に戻りますか

ですがここも変わりつつありました。いつの間にか福祉の街になり始めていたのです。筑豊炭鉱飯塚が変貌してしまった時の悲しみに似ています。これも歴史

なのですか?

              おわり