私の終活 やはり「酒と山と児童少年少女小説」が続きます。中津さんそん

孫への遺書 八番「隣室の赤子」 (11500字)    

 

 

 (はしがき)

 

大阪西成の一角に 昔より大道芸人や日雇い労務者が定宿としている通りがあります。信太山老人は そこの築100年の古アパ-トに寝泊まりしています。贅沢な話ですが隠居所と言うところでしょう 。隣室は 未成年未婚のシングルマザ-です。

この三人が ふとしたことから言葉を交わすようになり やがて{家族ごっこ}をやることになるのです。

 途次 元恋人の殴り込みなんかありましたが 老人の武勇で難を逃れることが出来ました。

やがて母子は 老人の一人娘の家に居候することに為ります そこで彼女は 生まれて初めて社会常識と言うのか人間常識と言うのか世間一般の事を沢山勉強しました。普通なら こんなことは親から学ぶのでしょうが 彼女は訳あり人間で親なし同然の女だったのです。

ここで成人の日を迎えています。

大人になった彼女は 、伊豆の温泉地に子連れ住み込みの職を見つけて巣立って行きました。 今の信太山老人は 母子からの写真付き手紙を何よりの楽しみとしています。

本文

  大阪西成区山王の一角に 山王アパ-トはあります。 古色蒼然、木造二階の昔の小学校校舎みたいな感じです。ボロの癖に不相応にデカイ。実は築100年の強者です。

一階二階ともに三畳の個室がハ-モニカみたいに整然と並んでいます。その廊下がやけに幅広い。京間というやつで 今ではなかなかお目にかかれない代物でしょう。

ドア-を開けても そこには三畳の空間があるだけ 水場もトイレもない。寝る以外には用途のない部屋なのです。       

 共同便所が 一・二階ともに西の突き当りに清潔そのものと言った作りがあります。その反対の東突き当りには 共同炊事場ですがガス台はあっても使用されている形跡は全くありません。居住者には無用の長物なのでしょう。彼等には 睡眠がとれる『静か』であれば十分なのです。

二階の一室に信太山老人は住んでおります。

老人は労働はしておりません。安い年金生活です。近くの芸人長屋に娘家族三人が呑み屋商売をやっているのですが この年寄りは「迷惑はかけられん」と隠居所生活をして 夜だけ娘を手伝う気まま年寄りです。。

 ですが この広い廃校舎みたいなアパ-トは昼間には信太山老人一人しかおり

ません。ポツンと孤老、孤独を楽しんでおります。

 実はここが西成の面白いところなのですが 老人は昨日から一人ではないのです。隣の部屋から赤子の泣き声が漏れてきて気になって仕方がない。

正体不明の存在です。しかも赤子となると、老人の親心が騒がしい。

 泣き声が始ると立ちあがって狭い部屋をウロウロします。薄いベニヤ板の壁では隣の音は筒抜けです。江戸の長屋と変わりません。

 赤子の声とは 全く異次元の日常です。

この町の人間は多くは 朝暗いうちから仕事に出て 終わって 風呂に行って 酒飲んで 飯食って寝ることを繰り返す毎日です。 何はともあれ睡眠が保障されたら 此処は天国釜ヶ崎!と言うことに為ります。

 アパ-トは静かでありたい。 昼間は無人ですから当然静かです。なのに赤子の泣き声とは これ如何に? 

「ヒック ヒック」

確かに 赤子だ。 なのに元気がない。

此処は家族者が生活するような所ではありません。 誰かが息を殺して隠れているような雰囲気です。しかも…子連れで・・・。

コリャ ヤバイじゃないか。心中?  老人は心の中で唸りました

「子供は巻き添えにしないでください・・・」

 実は老人 バカが付くほど早合点で有名です。

 街の住人は他人の「訳あり」には口を挟まないのが憲法です 勿論 老人は法を守る善良な市民です。 ですけど 子供の事となったら話は違う・・・

ストレ-トに心配します。

「子供殺しはダメですよ 今は誰もいませんから 思い切り泣かせてください  大声で泣いたら 後はスッキリ気も変わります」

 これはこれで 事はおさまりました。老人以外は無人のアパ-トです。トラブルになりようがなかったのです。老人自身もめ事は苦手ですから。

 

 ところが 真夜中の一時頃 西どまりの共同便所から凄い赤子の泣き声がアパ-ト中に響き渡ったのです。

何処からも『ウルサイ!』の怒号は飛んできません  多分アパ-ト中が目覚めてしまったに違いないのですが・・・ 子供の泣き声とは珍しいコッチャ と怒っているのか苦笑いしているのか

平和な山王アパ-トですけれども 一年に二度や三度は激しい殴り込みのついた痴話喧嘩が見られます。 これはヘタな芝居よりも面白い。これに出くわすのも住人の楽しみの一つです。たかが赤ん坊が泣いてるだけや・・・ と皆さん知らんふりして寝ているだけでしょう・・・

 一方便所では 赤子の突然の暴発に 親の困りはてた姿が目に浮かびます。狼狽ぶりが想像できます。 此処はお節介せざるを得ません

ところが老人は廊下に出しなに 赤ん坊を抱いた若い女に出くわしました。

「すいません すいません」と繰り返すのです。「お騒がして申しわけありません」

 どうやら この老人を怒って飛び出してきた怖い人と勘違いしたようです。若いお母さんは恐怖と警戒で一杯です。

 「これが母親?」

信太山老人はビックリした。 

信じられないくらい若い。若すぎる。まだ高校生じゃないか・・・

頭を下げながらも 少女は子供を固く守って身構えています。 例え老人でも相手は何をするか解らないのです。

 ところが老人からは思いもかけず優しい声が返ってきたのです。

「大変ですね----でも大丈夫 大丈夫 別に病気の泣き方じゃないから----」

自分でも苦笑するほど 経験者ぶった慰め方をしているではないですか。

若い母親はホッと安心したのか 「ありがとうございます お休みなさい」と頭を下げると足早に部屋に入っていきました。

 管理人の小母さんは話が好きだ。尋ねもしないことでも喋るわ喋るわ、聞き手は 何時ストップをかけるか タイミングを取るのに苦労させられます。アパ-トの住人情報は無論の事 この町の過去現在やたらに詳しい。聴いている分には面白いが驚きと言うより嫌らしくなってしまうことが多い。

 昨夜の<赤ちゃん騒動>のことは先刻ご承知です。

管理人は何故か信夫山老人を信用しています。早速 若い母親の秘密を特別に話してくれました。

 それによると 名前を鳴海ゆきと言い 親も西成だし自分も西成生まれだという。中学を出て二年くらいだから正真正銘の未成年の母です。

昼はス-パ-でパ-トをやり夜は難波で風俗ホステスをやっている。 「真面目な良い子なんだよ」と 小母さんはベタ褒めです。

 このアパ-トは子持ちは禁止です。ですから 昼間は市営の保育所に預け 夜は近くの個人経営の保育に頼んでいます。二十四時間他人に預けられている赤子です。

 母子一緒に暮らしたいのですが ゆきは子育ての知識がありませんから 自ら敢えてこんな無茶な子育てを選んだみたいです。

彼女の家庭願望は切ないほど強いのですが 先ず お金を貯める事に集中しています。

親も兄姉もいない女です。 哀しいことに 家族とか家庭というものの空気も実際も知りません。子育ての経験も教えを受けたこともないけれど ゆきには自信があるのです。【やってやるぜ!】と 負けん気だけは人一倍強い。何よりも 私には子供を大事にする覚悟がある。

 管理人の小母さんは施設を勧めたのですが 是だけは頑として承知しませんでした。

 実は ゆき自身 物心ついてからズット天王寺の施設育ちであったのです。

 今のところ アパ-トには寐に来るだけです。時時 赤子を連れてきて一緒に寐ているらしいことに 老人は迂闊にも気が付きませんでした。尤も 老人は名うての酒呑みですからそれもありでしょう。

 「でもね 昨夜みたいなことがあるとねエ」と 困った顔になるのです。

翌日には赤子の気配は消えていました。

薄い間仕切りのアパ-トでは赤ん坊の泣き声はやはり御法度なのです。

 

 あのトイレ騒動から一年がたっております。

 早朝の七時ごろジョギングから帰ると 玄関でアイシャドウを半ば剥がした珍妙なパンダに出会いました。 『誰やこんな時間に…?』 ところが『おはようございます』と場違いに丁寧に挨拶されて老人は一瞬身を引いたほどでした。

 「あっ お隣さん」と気が付いて 思わず「お帰りなさい」

痛々しいほど疲れている。それでも 老人には”若さ〝はやはり眩しいものです

 一寸嬉しくなります。

それから隣室に 微かな人の気配が続くようになりました。若いお母さんは頑張っております。時には真夜中「クッ クッ クッ」と引きつる声に老人は目覚めます。「あっ あの子が来ている」。感動です。そろそろ歩き始めたんじゃないかな?」

「ボソボソ・・・」と お母さんがムツカル子を懸命に抑えている息使いです。相変わらず大変だ・・・」

管理人のおしゃべりによると 子供はやはり今でも保育所生活ですが 此れからは土日は母親とアパ-トで一泊二日となるからと わがことのように喜んでいるのです。赤子も大きくなって扱い方も慣れてきたのでしょう。

老人は母子とトイレや玄関で行きかうこともあり 軽く目礼を交わす程度ですが 此れが老人にはその日一日の生き甲斐となるのでした。<すれ違った>だけで浮き立つのでした。

男の声が全くしないのも この母子の”訳あり“を語っているようです。この母子 一年前と比べるとまるで雰囲気が違う。親は疲れているけど自信の固まりです。

信太山老人は「うん 自立の時か・・・?」

と 強い少女に(わが期待は的中したり)と喜び一杯ですが 「もしや お金もたまった事だから 直ぐ引っ越しするんじゃないか?」と落ち着きません。

 

昼下がり 住人は略仕事に出払いアパ-トに残っているのは信太山老人だけです。 隣室のことは 音だけで老人にはすべてを想像できます。

母親のケイタイが鳴りました。 ピンクの同僚が『近くに来てるんだけど、一寸。お金貸してくれない?』 どうせ パチンコにでも負けがこんでいるのだろう…。 

新世界だという。「じゃ 直ぐ行くから」と軽く言ったのでした。 赤子は眠っている。往復に20分もあればOKだろう。

(お利口だからお留守番お願いネ)と 頭を撫ぜて母は出かけました。

鍵をかける音 急ぎ階段を下りる足音を老人は耳にしています。

ところが 友人に金を渡して戻りかけたとき あまり顔を合わせたくない昔の女に会いました。 何を知りたいのか やたらに質問をしてくるのです。

「今どこの店にいるの?」 「アパ-トは同じ処?」 「子供は元気?」

早く戻らないと気が焦ります。子供も一緒に連れてくるんだった。参ったな・・・

「あの男 どうしてる? 今でも一緒?」

もう止めてくれ…「ご免 御免 今急いでるから・・・バイバイ---」

一目散に走りだしていました。

 

  一方アパ-トでは 先ほどから老人は隣室の様子が気になって仕方がありません。と言うのも 先ほどから 「ヒック ヒック」の声が大きくなっていくばかりなのです。

「あれ---あの子ではないの・・・? さっきあ母さんが出かけたみたいだったけれど まさか一人で出かけたの、子供置いて・・」

「ヤレ ヤレ 今どきの若いもんわ…!」老人は苦笑します。

すると隣の部屋からは「ウオッ ウオッ」と赤子が母親の居ないのを知ってグズリ始めた様子なのです。

 お母さん どっかに行っちゃった・・・・・

 

「ギャ~」と赤子は一気に銅鑼鐘のように泣きだしたのです。爆発です。老人は困りました。と言って困ってばかりもおれません。何しろ  今このアパ~トにいるのは自分だけです。なんか<いい恰好>しなければ・・・

 廊下に飛び出し隣のドアに手をかけてみると鍵がかかっています。「なんたることか・・・」

馬鹿野郎!  と老人は思わず怒鳴っております。

先日 大阪のマンションで母親が子供二人を置いて鍵かけて おまけに子供の叫びが漏れないようにドアをテープで密閉して男とのデートに出かけたのです。結果は 子供たちは空の冷蔵庫に引っかき傷を残して餓死しておりました。

 この時間 管理人の小母さんはいない。自宅に帰っております。

 赤子の泣き声はもはや絶叫です。このまま放置していたら それこそ最悪の事態になりかねません

 初孫の時 似たような事件があったのを思い出しました。

あの時の知恵が役に立ちます。

何をするかと思いきや 半分飲みかけの茶碗を持って壁際に寄り添うと 茶を含み「がらガラーーー」とやり出したのです。 まあ 変なおじさんの変な行動です。

それから変な音が続きます。妙ちくりんな創作騒音が次から次と飛び出すのです。

「ブク ブク。 ズルーズルー」

平たく言えば 帝国ホテルでスープを思いきり音を立てて啜っている塩梅です。行儀の悪い紳士の地が出てしまいました。

 本人としては 色々とバラエティーの富んだ音を提供したいところなのですが なんせ道具立てが悪いのは残念です。神社などの大木に耳を当てると中を流れる養分樹液の音を聞くことが出来ます。 その激流の音を演出したいのですが 思うようにならず老人はそれでも真剣です。

 このズルーズルーは 妊娠中の母親が胎児と臍脳を通じて養分と廃棄物をやり取りする生理音にソックリだと老人は信じております。

 この説を娘に語ったところ「そうかもしれない…」と珍しく「ウンウン」と賛同したので 今では信太山老人の哲学とさえなっているのです。「この音が赤子を安堵させるのジャ」

この音を聞けば どんな時でも赤子は静かになります。「これが本当の子守歌でしょう」

しかし 正直言って精々うどんをすする音には似てるかもしれませんが 臍脳の流れに近いかどうかは さて置いて・・・

 

 でも不思議なことが起きたのですーーーー

              赤子の泣きがピタッと止んだのです。

壁の向こうでは 赤子が「これ何よ?」と困った顔付きなのですが それでも可なり嬉しそうです。 安堵です。

壁の向こうから変な声がやって来ました。 お腹の中にいる時のお母さんの声に似ていないことはないけれども ハッキリ言えば何だかよくわからん音です。だけど 何かとっても温かいものを感じる音でした。

 老人は手ごたえを感じました。 すると図に乗って壁を恐る恐るトントンと叩いてみました。 エッ 何とバンバンと大きく打ち返してきたのです。 信じられない感動です。

両側から バンバンの打ち合いです。

「一寸はしゃぎ過ぎたかな?」と心配しかけたとき 「あら けんちゃん何してんの?」。母親の驚きの声です。どうやら帰って来たらしい。

『けんちゃん 強いな…ちゃんとお留守番してくれたんだ ありがとう」 泣くどころか 壁をドンドン叩いて遊んでいるではないか―――理由もなく涙ぐんでしまう 隣室の老人の御苦労なんて考えも及びません。 ただ ご機嫌の我が子を見て拍子抜けしてしまった母親でした。

 

 翌日廊下に出しなに 老人は母子にバッタリ 全く予期せぬ遭遇にかなり大袈裟なビックリ仰天ぶりです。 自分でも嫌になるほどのお笑い芸人のしぐさです。こんな老人のバカらしさが若いお母さんを安心させたのでしょうか。

 瞬間老人を見つけた赤子のはしゃぎ様が普通ではないのです。<この子は老人と過去接触がありません。なのに「この喜びようは何?」。 私は子育て素人の母親です。けだし「不可解・・・」

母に抱かれている体を 信じられない勢いで反り上げ捻じ曲げると

「抱っこ!」と大手を広げて老人にせがんだのです。

余りにもハッキリした言葉に母親は息を呑みました。

「なんです?この子は? 知らない人に」そして「すみません すみません」と老人に謝るのでした。

 老人の心の中は『この子と私は 親も知らない深い仲』と 勝ち誇ったようにテンションは上がりっぱなし 普段の自制心は失っております。

「おお ヨシヨシ  おいでオイデ・・・」

と赤ん坊を取り上げようと超接近です。 これには 「危ない!」と一歩退いて母親は子供を守ろうとします。

ですけど 赤子の方が母親の心配をよそに既に半ば以上老人の腕の中に移ってしまっているのです。 手遅れです。

子供がそうなら「まあ 良いか」と思わざるを得ません。そう悪そうな人には見えないし――― それに もう老人だ

 もし誰かが今の三人を目にしたら 間違いなく「爺娘孫の三人家族」と思ったに違いありません。

 

 三人の「家族」が始まるのに長い時間は必要ありませんでした。

彼女の働く風俗店は土日燿は休みです。 

土日の二日は母子は丸一日中部屋にいます。 テレビがあるわけでなし狭い部屋に閉じこもっていて何が面白いのか 時たま廊下ですれ違う二人は まるで「今ほど幸せな時はありません」と叫んでいるようにニコヤカなのです。 一年前と比較すると 若いお母さんはもはや高校生ママではない。やけに逞しい大人になっています。

だが老人は気になっております。

月曜の朝に子供を保育所に連れて行くまで外出はほとんどしない。食事はどうしてるんだ?   殆んどコンビニ弁当みたいだが 是では幼児は可哀そう。

そこで老人は「ジジィにご馳走させて――」と外食に誘いました。

寿司屋に行っても中華でも西欧レストランもエスニックですら 子供は喜ばんし、彼女は何やら浮かぬ顔付きなのです。

家族三人の食事会が一か月も経った頃でした。その原因が解りました。

 彼女は生まれてからこの方 テーブルを囲んだ家族の食事をしたことがないというのです。しかも 勤め先では出前の店屋物が日常です。 老人は意味が理解できずに生返事をしていると やおら彼女は「これ三年前に買ったんだけど まだ一度も 使ったことはない」と ピカピカの炊飯器を取り出したのでした。三合炊きです 子供のためか・・・・それとも?

「わたしゃ飯も炊けない、みそ汁も作れない哀れな女でございます」

 と酔った女はゲラゲラと笑いだし泣きだしたのです。

子供は大人のように無口になって涙の母親を見上げているのです。その表情がやり切れない。

 信太山老人は かっては伊豆・箱根の料理人でした。 つまらん事情で永遠の廃業にしていますが この母子と家族となったからにはと 俄然青春時代の青雲の志が戻ってきたのでした。

 「ヨシ 三人家族の道は決まった」

 幸い昼間のアパートは無人です。共同炊事場は独占できるというものです。

まず最初は「飯炊き」であろう。早速彼女持参の炊飯器の登場です。 ところがコメを洗うところで老人は思い出したのです。。昔 若い女の子が洗剤でコメを洗ったと言って笑い話にした嫌な世間をです。彼女には洗米の基礎さえ教えてくれる大人はいなかったのです。

 老人は出不精の彼女を連れ出し 先ず デパ地下食品売り場を案内しました。

圧倒されました。魚 肉 野菜 くだもの 世界の珍味 寿司 パン そうそうお菓子色々 こんなもの見たこともない食品の種類の多さ そして人間の多さである。豪華多彩、おとぎ話の宮殿に迷い込んだ驚きに頭の中はボンヤリしてしまいました。母子には初体験です。「オーオ―」としか言葉はありません。

 一巡するのに 何と二時間近くも要しておりました。老人はダウン寸前クタクタです

母も子供も表情が無いのです。まるで無口なのです。老人の期待していた「あれなに? あれ美味しそう あれ食べたい」 おねだりも 甘えもないのです

気のせいか二人の表情は不機嫌になるばかり.  此処に並んでいるものは食べたことない。知らないものです。

パン売り場で子供の表情が動いたので 『なんか買っていこう』と誘うと「メロンパン頂戴」と元気な声になる。

ところが売り子は妙な顔をして「それ売り切れました」 置いてないのだ。

老人が慌てて。隣のチェリーの乗ったケーキを「これ どうや?」。「いらない!」とかなり不機嫌である。

帰りに近くのスーパーに寄り 出来合いの”鶏のから揚げ”と”芋サラダ“のお持ち帰りを買った  「今日はみそ汁を作ろうぜ」と 味噌と粉末ダシを老人は買いました。

その日の早めの夕食は 母親の炊いたご飯と老人指南の味噌汁に 家族の喜びようと言ったらなかったのです。 {飯も汁}も初めてのご馳走です。二人のはしゃぎ様を前にして老人は滂沱の涙です

 

 若いお母さんは老人より酒が強い。 少し飲みすぎにも見えるけど まあ こんなもんでしょう。 年寄りじみた説教みたいなことはしたくない。

彼女が特に上機嫌の時でした。

「この子象が好きなんよ 一度 本物を見せてやりたい」 酔った勢いです。

「なんだよ 動物園はソコじゃないかーーー行こう 行こう」即決です。。

 天王子動物園は歩いて20分とかからない。

ビールで気分の軽くなっている大人二人は はしゃぎまわる子供の手を引いてアパートを出ました。 「帰りは串カツだ!」

素晴らしい夕餉でありました。帰りのジャンジャン街で 突然見知らぬ小母さんに「ナニナニちゃんじゃないの?」と呼び止められたのでした。目元口元の卑しい中年婆です

瞬間 母親は顔をこわばらせ 怖い目で振り返ると 「違うヨ!」と投げ捨てた。

余りに普段とは違う声色に 一瞬息を呑むほどでした。

「私ヨ 私ヨ ほら 知ってるでしょう?」 なおも食い下がってくる婦人に

『知らないと言ったら知らないわよ しつこいネ』。全然相手にしない。

 子供を抱きあげると「行きましょうーー」と サッサと先を急ぐのでした。

 

 彼女の恐れていたことが 翌朝には早々とやって来ました 西成放送局のババーの威力は大したものです。 

アパートの住人は出払っており 残っているのは母子と老人に管理人の小母さんのみです。 母親が今から子供を託児所に連れて行くところでした。 また一週間の別れです。その時 下から「こんな処に居たか―――? 何処だ?」 

乱暴な怒鳴り声が二階まで響いてきました。 忘れもしないあの男の声だ。 ばばーがチクリやがったのだ。

「どこの部屋だ?」管理人の小母さんはオロオロしている。

考える時間も与えない。 老婆を突き飛ばすと ドタバタとかいだんをのぼってきた

二人の若者は戸を蹴破ると激しさのままに母子に襲い掛かっていました。一瞬の出来事です。 憎しみだけのケダモノです 

 隣室の老人は音を聞いただけで 何が起きたのか 即全てを理解しました。

躊躇なく飛び込んだ。子供を抱えた母親が狭い部屋を転げ回って逃げている。

老人は二人の若者に 全身全霊の頭突きを食らわせました。 しかし 老人は簡単に壁に叩きつけられていました。

「チキショウ―――」 ギリギリと怒りがこみ上げてくる。

母親は覆いかぶさって子供を暴力から守る。 自分は 背中をわき腹を頭を蹴られるままに暴力に耐えております。

 彼女は中学を卒業すると直ぐ大きくて清潔なチョコレート工場に就職しました。

恋をして同棲 施設の恩師や親友の反対を押し切って出産したのでした。

 芸能人猿真似の夫は 気がづけば 妻だけではなく乳飲み子にまで暴力をふるう少年父親に変身していたのです。少女には信じられない現実です。

一瞬の中に走り抜ける後悔です。こんなニセモノに好意を持った自分の馬鹿さ加減が情けないのです。

「負けて堪るか・・・、キサマなんかにゃ 子供も金もビタ一文やるもんか!」

 その時老人は立ちあがりました。

何がどうして どうなったのか。 それはオカルトの出来事です。

老人からの見えない攻撃によって 一瞬にして若者は奇妙な声を発するとそのまま卒倒してしまったのです。老人の必殺技?  まさか・・・

 男たちの倒れた隙に 老人は母子を抱きかかえると廊下に飛び出した 目の前は急峻な崖っぷちとも言っていいでしょうか まるでハシゴみたいに狭くて急こう配の階段です。

 老人は母子を両腕にして飛び降りました。それは まるでスローモーション・ビデオのように宙を飛んだのです。

ところが 後を追ってきた暴漢は 宙に浮いている三人を目にして 「自分たちも同じように―――」と急階段に足を踏み出したから堪りません。

がけ崩れのように直滑降 デングリ返って思い切り土間に叩きつけられたのでした。

ガラス戸まで破って 顔面血だらけ完全に伸びております。

 老人は赤子を抱きしめた母の手を引いて裸足で走りました。何の痛みもありません。無我夢中の全力疾走です。

 老人の娘は直ぐ近くで食堂兼居酒屋をやっております

驚く娘に親子を預けると 木刀を取って急ぎ引き返しました。

アパートにはパトカーが来ており救急車まで来ております。

管理人の小母さんが警察 に説明しています。。「この人が…この人が。。。」と木刀を下げた老人を指さすものですから とんだ 早とちりがありましたが 結局 老人は西成警察で事情聴取を受けて 娘の家で顔をそろえてカンパイした時は夜中の二時を回っておりました。ほんに楽しい一日でした。救急車の二人の若者はかなりの重傷で最悪の結果となりそうだとのことです。

 

 事件の後日談を少し書き加えておきます.

母子はつまるところ老人の娘宅に居候の身となったのです。

娘さんは五十路のシングル姉御です。高一中二の二人の息子を 食堂兼居酒屋商売で育てています。

 ここがすごいのです。

何がすごいと言って 食堂なのに座るイスがない 第一”食べる米のめし

がない。この食堂 何やってんですか?

 姉御は朝一番五時半には 店の前に湯気立つ「もつ煮込み」の大鍋を据えて 仕事に出かける労働者諸兄に煮込みを売りまくるのです。

 ホルモンん鍋は当店の儲け頭です。一日10キロの豚牛の臓物と大根ごぼうネギショウガニンニク等々の臭い野菜を煮込んだものです。と言うより<食えるものなら何でもOK>と言った方が正解かもしれません。昭和前期の時代 若者が好んだという「闇鍋」に似ているとも言えます。葷酒雑食わが店門は大歓迎 なのです。

 食堂の実態は 六畳の広場に細長いテーブルが二本あるだけ。立ち込めた男たちがそこでアルミ丼の煮込みを掻き込んでいる。多くは道の隅で空っ風に吹かれて口にしていますが

 朝の食堂は精々が十時どまりです。あと夕方暗くなり始めると 同じ部屋に粗大ゴミから集めてきたような腰掛を並べて一杯飲み屋に変身するのです・

昼間は姉御の自由な時間で買い物したりモツ鍋の仕込みをやったり 働き者の彼女は結構忙しく何処か知らないが飛び回っているようです。

 夜の酒場と言っても九時で閉店。「明日の仕事が お客さんも私も早いから・・・」と 労働者の街の不文律です。

酒はあるけど 酒の肴と言ったら例の朝のモツ煮込みの残りと ピーナッツスルメおかきほかの昔の東海道の車内販売程度のさびしい限りです。なのに店内は常連客で満席です。 どうやら 老人は「親父さん…」と呼ばれるのがことのほかお気に入りですし 娘さんも「おばちゃん・・・云々」とやられると 「ハーイ」なんて一オクターブ高い返事をしているのです・

 この家は”モツ鍋“中心に回転しています  二人の息子は「学校ではいつも臭い臭い」とイジラレてるよ。』と屈託ない。

 老人は夜は山王アパート泊りです。 その後を鳴海母子が借用となりましたが この部屋さえ脂ぎっている感じです。でも贅沢は言えません。母子は初めて 二十四時間一年中親子一緒の普通の生活になったのですから

 朝は『おはようございます。』  助けてもらったら『ありがとう』 出しゃばらず格好つけず 苛めをせず子供を大事にする。 そんな普通になりました。

 食事は もうコンビニ弁当やカップラーメンはありません

毎日 ご飯とみそ汁 またはパンと牛乳 またはカレーライスとサラダ等々食堂にしては普通は単調なものです。

 

 普通の日常が親子には何よりの幸福でした。毎日24時間ニコニコしっ放しです。。

 少女は風俗上がりです。客商売は経験者ですから 「任せてちょうだいーーー」と見栄を切ったのでした。 自分としてはこんな手伝いで幾分でも恩返しができるかな? なんて計算もしてたのですが やってみて言葉が出なくなり成した。

カルチャー・ショックです。

例え場末の安酒場であっても たとえ女であっても 若いだけでは通用しないことを思い知らされたのでした。生まれて初めての経験です。 話が通じない 相手にしてもらえない いやこれは相手が出来ない相手をする基本が自分にはないのです。。仲間に入れない悲しさは表現の仕様がない。惨めなだけです。学校で受けた苛めなんてやはり子供のいじめだと思いました。

このショックに比べたら あの男の事なんか思い出している暇もないわ。

 なら掃除で頑張ろうと思いました。なんせ家じゅうホルモンと脂の臭いです。

掃除機はありますが 板の間も畳の間も 掃除は原則”拭き掃除“です。

家具を拭いていくのはいいとしても 畳の拭き掃除は初めての経験でした。 雑巾の濡らし加減が解らず 随分と息子さんたちに教えてもらいました。

一旦マスターしてしまうと その清潔さというかその掃除の効果にビックリしました。赤子の咳やシャックリがピタリと止まったのです。

 板の間を拭いているとき 神棚の下に 献立一覧 会計簿記解説 税務対策と並んで「源氏物語云々」という固い表紙の本を見つけました 意味の分からない本だし 何となくこの家の雰囲気になじまない感じがしたので 「これ 何ですか?」と頭を傾けたら

「源氏だけはオススメ・・・」と笑って 姉御は何も説明してくれませんでした。

 

 居候生活丸二年 彼女はここで成年式を迎えました。そして 伊豆の温泉旅館に子連れ可住み込みの仕事を見つけ 母子とも共巣立って行きました。

 別れの時 「源氏物語云々」の本をプレゼントすることを姉御は忘れていませんでした。

                おわり

*次は 九番「兄と弟」を計画しています。

                 

孫への遺書 八番「隣室の赤子」 (11500字)    

 

 

 (はしがき)

 

大阪西成の一角に 昔より大道芸人や日雇い労務者が定宿としている通りがあります。信太山老人は そこの築100年の古アパ-トに寝泊まりしています。贅沢な話ですが隠居所と言うところでしょう 。隣室は 未成年未婚のシングルマザ-です。

この三人が ふとしたことから言葉を交わすようになり やがて{家族ごっこ}をやることになるのです。

 途次 元恋人の殴り込みなんかありましたが 老人の武勇で難を逃れることが出来ました。

やがて母子は 老人の一人娘の家に居候することに為ります そこで彼女は 生まれて初めて社会常識と言うのか人間常識と言うのか世間一般の事を沢山勉強しました。普通なら こんなことは親から学ぶのでしょうが 彼女は訳あり人間で親なし同然の女だったのです。

ここで成人の日を迎えています。

大人になった彼女は 、伊豆の温泉地に子連れ住み込みの職を見つけて巣立って行きました。 今の信太山老人は 母子からの写真付き手紙を何よりの楽しみとしています。

本文

  大阪西成区山王の一角に 山王アパ-トはあります。 古色蒼然、木造二階の昔の小学校校舎みたいな感じです。ボロの癖に不相応にデカイ。実は築100年の強者です。

一階二階ともに三畳の個室がハ-モニカみたいに整然と並んでいます。その廊下がやけに幅広い。京間というやつで 今ではなかなかお目にかかれない代物でしょう。

ドア-を開けても そこには三畳の空間があるだけ 水場もトイレもない。寝る以外には用途のない部屋なのです。       

 共同便所が 一・二階ともに西の突き当りに清潔そのものと言った作りがあります。その反対の東突き当りには 共同炊事場ですがガス台はあっても使用されている形跡は全くありません。居住者には無用の長物なのでしょう。彼等には 睡眠がとれる『静か』であれば十分なのです。

二階の一室に信太山老人は住んでおります。

老人は労働はしておりません。安い年金生活です。近くの芸人長屋に娘家族三人が呑み屋商売をやっているのですが この年寄りは「迷惑はかけられん」と隠居所生活をして 夜だけ娘を手伝う気まま年寄りです。。

 ですが この広い廃校舎みたいなアパ-トは昼間には信太山老人一人しかおり

ません。ポツンと孤老、孤独を楽しんでおります。

 実はここが西成の面白いところなのですが 老人は昨日から一人ではないのです。隣の部屋から赤子の泣き声が漏れてきて気になって仕方がない。

正体不明の存在です。しかも赤子となると、老人の親心が騒がしい。

 泣き声が始ると立ちあがって狭い部屋をウロウロします。薄いベニヤ板の壁では隣の音は筒抜けです。江戸の長屋と変わりません。

 赤子の声とは 全く異次元の日常です。

この町の人間は多くは 朝暗いうちから仕事に出て 終わって 風呂に行って 酒飲んで 飯食って寝ることを繰り返す毎日です。 何はともあれ睡眠が保障されたら 此処は天国釜ヶ崎!と言うことに為ります。

 アパ-トは静かでありたい。 昼間は無人ですから当然静かです。なのに赤子の泣き声とは これ如何に? 

「ヒック ヒック」

確かに 赤子だ。 なのに元気がない。

此処は家族者が生活するような所ではありません。 誰かが息を殺して隠れているような雰囲気です。しかも…子連れで・・・。

コリャ ヤバイじゃないか。心中?  老人は心の中で唸りました

「子供は巻き添えにしないでください・・・」

 実は老人 バカが付くほど早合点で有名です。

 街の住人は他人の「訳あり」には口を挟まないのが憲法です 勿論 老人は法を守る善良な市民です。 ですけど 子供の事となったら話は違う・・・

ストレ-トに心配します。

「子供殺しはダメですよ 今は誰もいませんから 思い切り泣かせてください  大声で泣いたら 後はスッキリ気も変わります」

 これはこれで 事はおさまりました。老人以外は無人のアパ-トです。トラブルになりようがなかったのです。老人自身もめ事は苦手ですから。

 

 ところが 真夜中の一時頃 西どまりの共同便所から凄い赤子の泣き声がアパ-ト中に響き渡ったのです。

何処からも『ウルサイ!』の怒号は飛んできません  多分アパ-ト中が目覚めてしまったに違いないのですが・・・ 子供の泣き声とは珍しいコッチャ と怒っているのか苦笑いしているのか

平和な山王アパ-トですけれども 一年に二度や三度は激しい殴り込みのついた痴話喧嘩が見られます。 これはヘタな芝居よりも面白い。これに出くわすのも住人の楽しみの一つです。たかが赤ん坊が泣いてるだけや・・・ と皆さん知らんふりして寝ているだけでしょう・・・

 一方便所では 赤子の突然の暴発に 親の困りはてた姿が目に浮かびます。狼狽ぶりが想像できます。 此処はお節介せざるを得ません

ところが老人は廊下に出しなに 赤ん坊を抱いた若い女に出くわしました。

「すいません すいません」と繰り返すのです。「お騒がして申しわけありません」

 どうやら この老人を怒って飛び出してきた怖い人と勘違いしたようです。若いお母さんは恐怖と警戒で一杯です。

 「これが母親?」

信太山老人はビックリした。 

信じられないくらい若い。若すぎる。まだ高校生じゃないか・・・

頭を下げながらも 少女は子供を固く守って身構えています。 例え老人でも相手は何をするか解らないのです。

 ところが老人からは思いもかけず優しい声が返ってきたのです。

「大変ですね----でも大丈夫 大丈夫 別に病気の泣き方じゃないから----」

自分でも苦笑するほど 経験者ぶった慰め方をしているではないですか。

若い母親はホッと安心したのか 「ありがとうございます お休みなさい」と頭を下げると足早に部屋に入っていきました。

 管理人の小母さんは話が好きだ。尋ねもしないことでも喋るわ喋るわ、聞き手は 何時ストップをかけるか タイミングを取るのに苦労させられます。アパ-トの住人情報は無論の事 この町の過去現在やたらに詳しい。聴いている分には面白いが驚きと言うより嫌らしくなってしまうことが多い。

 昨夜の<赤ちゃん騒動>のことは先刻ご承知です。

管理人は何故か信夫山老人を信用しています。早速 若い母親の秘密を特別に話してくれました。

 それによると 名前を鳴海ゆきと言い 親も西成だし自分も西成生まれだという。中学を出て二年くらいだから正真正銘の未成年の母です。

昼はス-パ-でパ-トをやり夜は難波で風俗ホステスをやっている。 「真面目な良い子なんだよ」と 小母さんはベタ褒めです。

 このアパ-トは子持ちは禁止です。ですから 昼間は市営の保育所に預け 夜は近くの個人経営の保育に頼んでいます。二十四時間他人に預けられている赤子です。

 母子一緒に暮らしたいのですが ゆきは子育ての知識がありませんから 自ら敢えてこんな無茶な子育てを選んだみたいです。

彼女の家庭願望は切ないほど強いのですが 先ず お金を貯める事に集中しています。

親も兄姉もいない女です。 哀しいことに 家族とか家庭というものの空気も実際も知りません。子育ての経験も教えを受けたこともないけれど ゆきには自信があるのです。【やってやるぜ!】と 負けん気だけは人一倍強い。何よりも 私には子供を大事にする覚悟がある。

 管理人の小母さんは施設を勧めたのですが 是だけは頑として承知しませんでした。

 実は ゆき自身 物心ついてからズット天王寺の施設育ちであったのです。

 今のところ アパ-トには寐に来るだけです。時時 赤子を連れてきて一緒に寐ているらしいことに 老人は迂闊にも気が付きませんでした。尤も 老人は名うての酒呑みですからそれもありでしょう。

 「でもね 昨夜みたいなことがあるとねエ」と 困った顔になるのです。

翌日には赤子の気配は消えていました。

薄い間仕切りのアパ-トでは赤ん坊の泣き声はやはり御法度なのです。

 

 あのトイレ騒動から一年がたっております。

 早朝の七時ごろジョギングから帰ると 玄関でアイシャドウを半ば剥がした珍妙なパンダに出会いました。 『誰やこんな時間に…?』 ところが『おはようございます』と場違いに丁寧に挨拶されて老人は一瞬身を引いたほどでした。

 「あっ お隣さん」と気が付いて 思わず「お帰りなさい」

痛々しいほど疲れている。それでも 老人には”若さ〝はやはり眩しいものです

 一寸嬉しくなります。

それから隣室に 微かな人の気配が続くようになりました。若いお母さんは頑張っております。時には真夜中「クッ クッ クッ」と引きつる声に老人は目覚めます。「あっ あの子が来ている」。感動です。そろそろ歩き始めたんじゃないかな?」

「ボソボソ・・・」と お母さんがムツカル子を懸命に抑えている息使いです。相変わらず大変だ・・・」

管理人のおしゃべりによると 子供はやはり今でも保育所生活ですが 此れからは土日は母親とアパ-トで一泊二日となるからと わがことのように喜んでいるのです。赤子も大きくなって扱い方も慣れてきたのでしょう。

老人は母子とトイレや玄関で行きかうこともあり 軽く目礼を交わす程度ですが 此れが老人にはその日一日の生き甲斐となるのでした。<すれ違った>だけで浮き立つのでした。

男の声が全くしないのも この母子の”訳あり“を語っているようです。この母子 一年前と比べるとまるで雰囲気が違う。親は疲れているけど自信の固まりです。

信太山老人は「うん 自立の時か・・・?」

と 強い少女に(わが期待は的中したり)と喜び一杯ですが 「もしや お金もたまった事だから 直ぐ引っ越しするんじゃないか?」と落ち着きません。

 

昼下がり 住人は略仕事に出払いアパ-トに残っているのは信太山老人だけです。 隣室のことは 音だけで老人にはすべてを想像できます。

母親のケイタイが鳴りました。 ピンクの同僚が『近くに来てるんだけど、一寸。お金貸してくれない?』 どうせ パチンコにでも負けがこんでいるのだろう…。 

新世界だという。「じゃ 直ぐ行くから」と軽く言ったのでした。 赤子は眠っている。往復に20分もあればOKだろう。

(お利口だからお留守番お願いネ)と 頭を撫ぜて母は出かけました。

鍵をかける音 急ぎ階段を下りる足音を老人は耳にしています。

ところが 友人に金を渡して戻りかけたとき あまり顔を合わせたくない昔の女に会いました。 何を知りたいのか やたらに質問をしてくるのです。

「今どこの店にいるの?」 「アパ-トは同じ処?」 「子供は元気?」

早く戻らないと気が焦ります。子供も一緒に連れてくるんだった。参ったな・・・

「あの男 どうしてる? 今でも一緒?」

もう止めてくれ…「ご免 御免 今急いでるから・・・バイバイ---」

一目散に走りだしていました。

 

  一方アパ-トでは 先ほどから老人は隣室の様子が気になって仕方がありません。と言うのも 先ほどから 「ヒック ヒック」の声が大きくなっていくばかりなのです。

「あれ---あの子ではないの・・・? さっきあ母さんが出かけたみたいだったけれど まさか一人で出かけたの、子供置いて・・」

「ヤレ ヤレ 今どきの若いもんわ…!」老人は苦笑します。

すると隣の部屋からは「ウオッ ウオッ」と赤子が母親の居ないのを知ってグズリ始めた様子なのです。

 お母さん どっかに行っちゃった・・・・・

 

「ギャ~」と赤子は一気に銅鑼鐘のように泣きだしたのです。爆発です。老人は困りました。と言って困ってばかりもおれません。何しろ  今このアパ~トにいるのは自分だけです。なんか<いい恰好>しなければ・・・

 廊下に飛び出し隣のドアに手をかけてみると鍵がかかっています。「なんたることか・・・」

馬鹿野郎!  と老人は思わず怒鳴っております。

先日 大阪のマンションで母親が子供二人を置いて鍵かけて おまけに子供の叫びが漏れないようにドアをテープで密閉して男とのデートに出かけたのです。結果は 子供たちは空の冷蔵庫に引っかき傷を残して餓死しておりました。

 この時間 管理人の小母さんはいない。自宅に帰っております。

 赤子の泣き声はもはや絶叫です。このまま放置していたら それこそ最悪の事態になりかねません

 初孫の時 似たような事件があったのを思い出しました。

あの時の知恵が役に立ちます。

何をするかと思いきや 半分飲みかけの茶碗を持って壁際に寄り添うと 茶を含み「がらガラーーー」とやり出したのです。 まあ 変なおじさんの変な行動です。

それから変な音が続きます。妙ちくりんな創作騒音が次から次と飛び出すのです。

「ブク ブク。 ズルーズルー」

平たく言えば 帝国ホテルでスープを思いきり音を立てて啜っている塩梅です。行儀の悪い紳士の地が出てしまいました。

 本人としては 色々とバラエティーの富んだ音を提供したいところなのですが なんせ道具立てが悪いのは残念です。神社などの大木に耳を当てると中を流れる養分樹液の音を聞くことが出来ます。 その激流の音を演出したいのですが 思うようにならず老人はそれでも真剣です。

 このズルーズルーは 妊娠中の母親が胎児と臍脳を通じて養分と廃棄物をやり取りする生理音にソックリだと老人は信じております。

 この説を娘に語ったところ「そうかもしれない…」と珍しく「ウンウン」と賛同したので 今では信太山老人の哲学とさえなっているのです。「この音が赤子を安堵させるのジャ」

この音を聞けば どんな時でも赤子は静かになります。「これが本当の子守歌でしょう」

しかし 正直言って精々うどんをすする音には似てるかもしれませんが 臍脳の流れに近いかどうかは さて置いて・・・

 

 でも不思議なことが起きたのですーーーー

              赤子の泣きがピタッと止んだのです。

壁の向こうでは 赤子が「これ何よ?」と困った顔付きなのですが それでも可なり嬉しそうです。 安堵です。

壁の向こうから変な声がやって来ました。 お腹の中にいる時のお母さんの声に似ていないことはないけれども ハッキリ言えば何だかよくわからん音です。だけど 何かとっても温かいものを感じる音でした。

 老人は手ごたえを感じました。 すると図に乗って壁を恐る恐るトントンと叩いてみました。 エッ 何とバンバンと大きく打ち返してきたのです。 信じられない感動です。

両側から バンバンの打ち合いです。

「一寸はしゃぎ過ぎたかな?」と心配しかけたとき 「あら けんちゃん何してんの?」。母親の驚きの声です。どうやら帰って来たらしい。

『けんちゃん 強いな…ちゃんとお留守番してくれたんだ ありがとう」 泣くどころか 壁をドンドン叩いて遊んでいるではないか―――理由もなく涙ぐんでしまう 隣室の老人の御苦労なんて考えも及びません。 ただ ご機嫌の我が子を見て拍子抜けしてしまった母親でした。

 

 翌日廊下に出しなに 老人は母子にバッタリ 全く予期せぬ遭遇にかなり大袈裟なビックリ仰天ぶりです。 自分でも嫌になるほどのお笑い芸人のしぐさです。こんな老人のバカらしさが若いお母さんを安心させたのでしょうか。

 瞬間老人を見つけた赤子のはしゃぎ様が普通ではないのです。<この子は老人と過去接触がありません。なのに「この喜びようは何?」。 私は子育て素人の母親です。けだし「不可解・・・」

母に抱かれている体を 信じられない勢いで反り上げ捻じ曲げると

「抱っこ!」と大手を広げて老人にせがんだのです。

余りにもハッキリした言葉に母親は息を呑みました。

「なんです?この子は? 知らない人に」そして「すみません すみません」と老人に謝るのでした。

 老人の心の中は『この子と私は 親も知らない深い仲』と 勝ち誇ったようにテンションは上がりっぱなし 普段の自制心は失っております。

「おお ヨシヨシ  おいでオイデ・・・」

と赤ん坊を取り上げようと超接近です。 これには 「危ない!」と一歩退いて母親は子供を守ろうとします。

ですけど 赤子の方が母親の心配をよそに既に半ば以上老人の腕の中に移ってしまっているのです。 手遅れです。

子供がそうなら「まあ 良いか」と思わざるを得ません。そう悪そうな人には見えないし――― それに もう老人だ

 もし誰かが今の三人を目にしたら 間違いなく「爺娘孫の三人家族」と思ったに違いありません。

 

 三人の「家族」が始まるのに長い時間は必要ありませんでした。

彼女の働く風俗店は土日燿は休みです。 

土日の二日は母子は丸一日中部屋にいます。 テレビがあるわけでなし狭い部屋に閉じこもっていて何が面白いのか 時たま廊下ですれ違う二人は まるで「今ほど幸せな時はありません」と叫んでいるようにニコヤカなのです。 一年前と比較すると 若いお母さんはもはや高校生ママではない。やけに逞しい大人になっています。

だが老人は気になっております。

月曜の朝に子供を保育所に連れて行くまで外出はほとんどしない。食事はどうしてるんだ?   殆んどコンビニ弁当みたいだが 是では幼児は可哀そう。

そこで老人は「ジジィにご馳走させて――」と外食に誘いました。

寿司屋に行っても中華でも西欧レストランもエスニックですら 子供は喜ばんし、彼女は何やら浮かぬ顔付きなのです。

家族三人の食事会が一か月も経った頃でした。その原因が解りました。

 彼女は生まれてからこの方 テーブルを囲んだ家族の食事をしたことがないというのです。しかも 勤め先では出前の店屋物が日常です。 老人は意味が理解できずに生返事をしていると やおら彼女は「これ三年前に買ったんだけど まだ一度も 使ったことはない」と ピカピカの炊飯器を取り出したのでした。三合炊きです 子供のためか・・・・それとも?

「わたしゃ飯も炊けない、みそ汁も作れない哀れな女でございます」

 と酔った女はゲラゲラと笑いだし泣きだしたのです。

子供は大人のように無口になって涙の母親を見上げているのです。その表情がやり切れない。

 信太山老人は かっては伊豆・箱根の料理人でした。 つまらん事情で永遠の廃業にしていますが この母子と家族となったからにはと 俄然青春時代の青雲の志が戻ってきたのでした。

 「ヨシ 三人家族の道は決まった」

 幸い昼間のアパートは無人です。共同炊事場は独占できるというものです。

まず最初は「飯炊き」であろう。早速彼女持参の炊飯器の登場です。 ところがコメを洗うところで老人は思い出したのです。。昔 若い女の子が洗剤でコメを洗ったと言って笑い話にした嫌な世間をです。彼女には洗米の基礎さえ教えてくれる大人はいなかったのです。

 老人は出不精の彼女を連れ出し 先ず デパ地下食品売り場を案内しました。

圧倒されました。魚 肉 野菜 くだもの 世界の珍味 寿司 パン そうそうお菓子色々 こんなもの見たこともない食品の種類の多さ そして人間の多さである。豪華多彩、おとぎ話の宮殿に迷い込んだ驚きに頭の中はボンヤリしてしまいました。母子には初体験です。「オーオ―」としか言葉はありません。

 一巡するのに 何と二時間近くも要しておりました。老人はダウン寸前クタクタです

母も子供も表情が無いのです。まるで無口なのです。老人の期待していた「あれなに? あれ美味しそう あれ食べたい」 おねだりも 甘えもないのです

気のせいか二人の表情は不機嫌になるばかり.  此処に並んでいるものは食べたことない。知らないものです。

パン売り場で子供の表情が動いたので 『なんか買っていこう』と誘うと「メロンパン頂戴」と元気な声になる。

ところが売り子は妙な顔をして「それ売り切れました」 置いてないのだ。

老人が慌てて。隣のチェリーの乗ったケーキを「これ どうや?」。「いらない!」とかなり不機嫌である。

帰りに近くのスーパーに寄り 出来合いの”鶏のから揚げ”と”芋サラダ“のお持ち帰りを買った  「今日はみそ汁を作ろうぜ」と 味噌と粉末ダシを老人は買いました。

その日の早めの夕食は 母親の炊いたご飯と老人指南の味噌汁に 家族の喜びようと言ったらなかったのです。 {飯も汁}も初めてのご馳走です。二人のはしゃぎ様を前にして老人は滂沱の涙です

 

 若いお母さんは老人より酒が強い。 少し飲みすぎにも見えるけど まあ こんなもんでしょう。 年寄りじみた説教みたいなことはしたくない。

彼女が特に上機嫌の時でした。

「この子象が好きなんよ 一度 本物を見せてやりたい」 酔った勢いです。

「なんだよ 動物園はソコじゃないかーーー行こう 行こう」即決です。。

 天王子動物園は歩いて20分とかからない。

ビールで気分の軽くなっている大人二人は はしゃぎまわる子供の手を引いてアパートを出ました。 「帰りは串カツだ!」

素晴らしい夕餉でありました。帰りのジャンジャン街で 突然見知らぬ小母さんに「ナニナニちゃんじゃないの?」と呼び止められたのでした。目元口元の卑しい中年婆です

瞬間 母親は顔をこわばらせ 怖い目で振り返ると 「違うヨ!」と投げ捨てた。

余りに普段とは違う声色に 一瞬息を呑むほどでした。

「私ヨ 私ヨ ほら 知ってるでしょう?」 なおも食い下がってくる婦人に

『知らないと言ったら知らないわよ しつこいネ』。全然相手にしない。

 子供を抱きあげると「行きましょうーー」と サッサと先を急ぐのでした。

 

 彼女の恐れていたことが 翌朝には早々とやって来ました 西成放送局のババーの威力は大したものです。 

アパートの住人は出払っており 残っているのは母子と老人に管理人の小母さんのみです。 母親が今から子供を託児所に連れて行くところでした。 また一週間の別れです。その時 下から「こんな処に居たか―――? 何処だ?」 

乱暴な怒鳴り声が二階まで響いてきました。 忘れもしないあの男の声だ。 ばばーがチクリやがったのだ。

「どこの部屋だ?」管理人の小母さんはオロオロしている。

考える時間も与えない。 老婆を突き飛ばすと ドタバタとかいだんをのぼってきた

二人の若者は戸を蹴破ると激しさのままに母子に襲い掛かっていました。一瞬の出来事です。 憎しみだけのケダモノです 

 隣室の老人は音を聞いただけで 何が起きたのか 即全てを理解しました。

躊躇なく飛び込んだ。子供を抱えた母親が狭い部屋を転げ回って逃げている。

老人は二人の若者に 全身全霊の頭突きを食らわせました。 しかし 老人は簡単に壁に叩きつけられていました。

「チキショウ―――」 ギリギリと怒りがこみ上げてくる。

母親は覆いかぶさって子供を暴力から守る。 自分は 背中をわき腹を頭を蹴られるままに暴力に耐えております。

 彼女は中学を卒業すると直ぐ大きくて清潔なチョコレート工場に就職しました。

恋をして同棲 施設の恩師や親友の反対を押し切って出産したのでした。

 芸能人猿真似の夫は 気がづけば 妻だけではなく乳飲み子にまで暴力をふるう少年父親に変身していたのです。少女には信じられない現実です。

一瞬の中に走り抜ける後悔です。こんなニセモノに好意を持った自分の馬鹿さ加減が情けないのです。

「負けて堪るか・・・、キサマなんかにゃ 子供も金もビタ一文やるもんか!」

 その時老人は立ちあがりました。

何がどうして どうなったのか。 それはオカルトの出来事です。

老人からの見えない攻撃によって 一瞬にして若者は奇妙な声を発するとそのまま卒倒してしまったのです。老人の必殺技?  まさか・・・

 男たちの倒れた隙に 老人は母子を抱きかかえると廊下に飛び出した 目の前は急峻な崖っぷちとも言っていいでしょうか まるでハシゴみたいに狭くて急こう配の階段です。

 老人は母子を両腕にして飛び降りました。それは まるでスローモーション・ビデオのように宙を飛んだのです。

ところが 後を追ってきた暴漢は 宙に浮いている三人を目にして 「自分たちも同じように―――」と急階段に足を踏み出したから堪りません。

がけ崩れのように直滑降 デングリ返って思い切り土間に叩きつけられたのでした。

ガラス戸まで破って 顔面血だらけ完全に伸びております。

 老人は赤子を抱きしめた母の手を引いて裸足で走りました。何の痛みもありません。無我夢中の全力疾走です。

 老人の娘は直ぐ近くで食堂兼居酒屋をやっております

驚く娘に親子を預けると 木刀を取って急ぎ引き返しました。

アパートにはパトカーが来ており救急車まで来ております。

管理人の小母さんが警察 に説明しています。。「この人が…この人が。。。」と木刀を下げた老人を指さすものですから とんだ 早とちりがありましたが 結局 老人は西成警察で事情聴取を受けて 娘の家で顔をそろえてカンパイした時は夜中の二時を回っておりました。ほんに楽しい一日でした。救急車の二人の若者はかなりの重傷で最悪の結果となりそうだとのことです。

 

 事件の後日談を少し書き加えておきます.

母子はつまるところ老人の娘宅に居候の身となったのです。

娘さんは五十路のシングル姉御です。高一中二の二人の息子を 食堂兼居酒屋商売で育てています。

 ここがすごいのです。

何がすごいと言って 食堂なのに座るイスがない 第一”食べる米のめし

がない。この食堂 何やってんですか?

 姉御は朝一番五時半には 店の前に湯気立つ「もつ煮込み」の大鍋を据えて 仕事に出かける労働者諸兄に煮込みを売りまくるのです。

 ホルモンん鍋は当店の儲け頭です。一日10キロの豚牛の臓物と大根ごぼうネギショウガニンニク等々の臭い野菜を煮込んだものです。と言うより<食えるものなら何でもOK>と言った方が正解かもしれません。昭和前期の時代 若者が好んだという「闇鍋」に似ているとも言えます。葷酒雑食わが店門は大歓迎 なのです。

 食堂の実態は 六畳の広場に細長いテーブルが二本あるだけ。立ち込めた男たちがそこでアルミ丼の煮込みを掻き込んでいる。多くは道の隅で空っ風に吹かれて口にしていますが

 朝の食堂は精々が十時どまりです。あと夕方暗くなり始めると 同じ部屋に粗大ゴミから集めてきたような腰掛を並べて一杯飲み屋に変身するのです・

昼間は姉御の自由な時間で買い物したりモツ鍋の仕込みをやったり 働き者の彼女は結構忙しく何処か知らないが飛び回っているようです。

 夜の酒場と言っても九時で閉店。「明日の仕事が お客さんも私も早いから・・・」と 労働者の街の不文律です。

酒はあるけど 酒の肴と言ったら例の朝のモツ煮込みの残りと ピーナッツスルメおかきほかの昔の東海道の車内販売程度のさびしい限りです。なのに店内は常連客で満席です。 どうやら 老人は「親父さん…」と呼ばれるのがことのほかお気に入りですし 娘さんも「おばちゃん・・・云々」とやられると 「ハーイ」なんて一オクターブ高い返事をしているのです・

 この家は”モツ鍋“中心に回転しています  二人の息子は「学校ではいつも臭い臭い」とイジラレてるよ。』と屈託ない。

 老人は夜は山王アパート泊りです。 その後を鳴海母子が借用となりましたが この部屋さえ脂ぎっている感じです。でも贅沢は言えません。母子は初めて 二十四時間一年中親子一緒の普通の生活になったのですから

 朝は『おはようございます。』  助けてもらったら『ありがとう』 出しゃばらず格好つけず 苛めをせず子供を大事にする。 そんな普通になりました。

 食事は もうコンビニ弁当やカップラーメンはありません

毎日 ご飯とみそ汁 またはパンと牛乳 またはカレーライスとサラダ等々食堂にしては普通は単調なものです。

 

 普通の日常が親子には何よりの幸福でした。毎日24時間ニコニコしっ放しです。。

 少女は風俗上がりです。客商売は経験者ですから 「任せてちょうだいーーー」と見栄を切ったのでした。 自分としてはこんな手伝いで幾分でも恩返しができるかな? なんて計算もしてたのですが やってみて言葉が出なくなり成した。

カルチャー・ショックです。

例え場末の安酒場であっても たとえ女であっても 若いだけでは通用しないことを思い知らされたのでした。生まれて初めての経験です。 話が通じない 相手にしてもらえない いやこれは相手が出来ない相手をする基本が自分にはないのです。。仲間に入れない悲しさは表現の仕様がない。惨めなだけです。学校で受けた苛めなんてやはり子供のいじめだと思いました。

このショックに比べたら あの男の事なんか思い出している暇もないわ。

 なら掃除で頑張ろうと思いました。なんせ家じゅうホルモンと脂の臭いです。

掃除機はありますが 板の間も畳の間も 掃除は原則”拭き掃除“です。

家具を拭いていくのはいいとしても 畳の拭き掃除は初めての経験でした。 雑巾の濡らし加減が解らず 随分と息子さんたちに教えてもらいました。

一旦マスターしてしまうと その清潔さというかその掃除の効果にビックリしました。赤子の咳やシャックリがピタリと止まったのです。

 板の間を拭いているとき 神棚の下に 献立一覧 会計簿記解説 税務対策と並んで「源氏物語云々」という固い表紙の本を見つけました 意味の分からない本だし 何となくこの家の雰囲気になじまない感じがしたので 「これ 何ですか?」と頭を傾けたら

「源氏だけはオススメ・・・」と笑って 姉御は何も説明してくれませんでした。

 

 居候生活丸二年 彼女はここで成年式を迎えました。そして 伊豆の温泉旅館に子連れ可住み込みの仕事を見つけ 母子とも共巣立って行きました。

 別れの時 「源氏物語云々」の本をプレゼントすることを姉御は忘れていませんでした。

                おわり

*次は 九番「兄と弟」を計画しています。